Daybreak, lovers!1



「ね、ちーちゃん。そろそろ限界なんじゃない?」

小春日和という予報を裏切る、寒風吹きすさぶ冬の午後。
鉛色の空の下を足早に歩く人々は皆、厚いコートにマフラーや手袋で完全防備。

自分は暖かな店内でこれまた温かな紅茶を優雅に飲んでいるから他人事(ひとごと)のように思えるが、考えてみればもうじき自分もあの不愉快な色の空の下へ出て行かなければならないのだ。
千歳は、重苦しいため息を手にした紅茶のカップに落とした。残りわずかだった紅茶はすっかり冷めてしまっているし、手にしたものの飲む気にはなれずそれをテーブルに戻す。

アンティークな雰囲気のテーブルの上には上品なティーポットと紅茶のカップ、可愛らしい小皿にはケーキはもう残っていない。



天気予報では今日はそれなりに暖かく、こうしてわぴことお茶を楽しむにはもってこいのはずだった。
ところが晴れ間が覗くどころか、空は厚い雲に覆われたままだし、吹き付ける風は身を切るほど冷たい。
わぴことの話の内容も加味すれば、千歳でなくともため息は漏れてきそうな午後のひと時だった。


「さすがに、ね。悲しいかな、納得させられるだけの人がいないんだもの。お母様にしてはこれでも随分と我慢してくれた方だと思うわ」

千歳の言葉にわぴこも苦笑して頷く。

「だね、普通に考えたらありえないもんね。藤ノ宮家のご令嬢が三十路を迎えて婚約のひとつもしてないとか」

「わぴこ……」

千歳に睨まれて。わぴこはあははと朗らかに笑う。

「だって本当の事だよ。さんざん言われて来たでしょ、見合いを断るならお母様を納得させられるだけの相手を連れてきなさいってさ」

ぐっと言葉に詰まる千歳。
そのとおりなのだ。



大学を卒業後は母の決めた人と見合いをするようにと言われたが固辞した。
好きな人がいるの?と聞かれたが、そんな問題じゃなく私は私のやりたいことも探していないうちに結婚なんてしたくないし、見合いをセッティングしたって自らブチ壊してやるんだからと。
その言葉に千歳の本気を見た彼女の母は、渋々ではあったが見合いはさせないと約束した。
ただしなるべく早く、母の目にかなう人物を紹介しろとは言った。



だいたいやりたいことって、何?と千歳は自問自答する。
初めてではない。それこそ毎日のように考えていることだった。



大学4年生のとき、ちょうどその頃に社会勉強を兼ねて行っていたフラワーアレンジメントの教室で講師の資格を得た。だから卒業後はその講師の教室で自分も講師として少ないながらも生徒を持っている。ただ、資格があるから。
先生に薦められて取った資格だったが、全てを捨ててもやりたい事とはとてもいえなかった。
ただ、やりたい事が見つかりませんでしたなんて言えばじゃあ見合いだ結婚だと母が騒ぐだろうことは容易に想像出来たので、更にフラワーアレンジメントの腕を磨いて自分の教室を開きたいのだと伝えた。

好きなことを仕事に出来る人間なんて世の中にそう居ないのよ、と母は言ったが。
それは遠まわしに、それだけで食べていけるほど甘い世界ではないのだと言いたかったのだろうと千歳は思う。






「その顔だとどうせ見つかってないんでしょ?やりたいこと」

わぴこの言葉に、そんなことはない、フラワーアレンジメントの腕だってかなり磨いてきて、そろそろ本気で自分の教室を開こうと思っている……と返したかったけれど、出来なかった。

千歳自身もわかってはいるのだ。
親への意地や、見合いからの逃避のために今の仕事を続けているのだと。
講師の1人として週に3日ほど、借り物の教室で教えている。
確かに腕はそこそこのものだろう。
たまには依頼も回してもらえる。
センスがいいと褒めてもらったこともある。

けれど違うのだと、千歳も気づいている。
どのみち、わぴこには通用しない。



「……結婚すると女は強くなるって言うけど、ほんと変わったわねわぴこ」

「違うね。わぴこが追い抜いちゃったんだよ、ちーちゃんのこと」

「いちいちわぴこの言うことは痛いわね。なんて切れ味かしら。峰打ちにするとかしてくれればいいのに」

「ダメダメ、そんなことしてたらちーちゃんってばいつまで経っても夢から覚めないんだもん」

わぴこは呆れたような苦笑いでそう言い切った。

「夢、ねぇ」

「知ってるよ。ちーちゃんのやりたいことっていうか、持ち続けてる夢」

「……なによ?」


口にしたことはないはずだった。誰にも。
千歳自身がそれは口に出来なくなっていたから。
別にそれ自体は恥ずかしいことではないにもかかわらず、それをこの年になっても公然と口にすることはひどく恥ずかしいと思えたから。
けれどわぴこならば。
もはや生まれてから出会うまでの年月より、彼女との付き合いは長い。
そして純粋で無垢だと信じていた彼女が、実は仲間内では一番の策士であったと認識を改めた今となっては。
彼女の口から出る言葉など、予測するまでもなかった。




「お嫁さん」




千歳は、再び大きく深くため息をついた。
小さい頃からの憧れ。素敵なお嫁さん。
そこそこ物事の分別がつく頃には素敵な奥さん、と言い方を変えたが。
今も心の奥底にあるのはそれだった。


もちろん憧れるばかりでなく、真剣に相手も探してはみた。
藤ノ宮の当主とも言える立場に立つだけの度胸に胆力、事業を担うだけの決断力と先見性。
人を使う以上は必須とも言えるカリスマ性に、ただ使うばかりではなく従業員たちを労われるだけの優しさ。一言でいえば人望というもの。
もちろん、全てを兼ね備えた逸材もいるにはいたのだ。


「でも……だって、一番肝心なところが欠けてるんだもの……」

「まあねえ、政略結婚だって割り切れない以上は、ちーちゃんが好きになれない時点でどれだけ優れた人でもダメだよねぇ」


そう、そこまでの人であっても千歳は愛することが出来なかったのだ。
がんばってお付き合いしてみたら、新たな発見があって恋することが出来るかもしれない。
好きになれるかもしれないと付き合ってみたこともある。
だが「とても尊敬できる、いい方」以上にはどうしてもならない。


だからわぴこはそれを夢だと言う。
いや、逃避だと断じているのだ、本当は。


そして今日のわぴこは決意していた。
この、いつまでも純真無垢でどうしようもなく夢見がちな、愛すべき親友の背中を押そうと。
ここへ来る前に夫にも言われている。


「どうせまたいつものようにデモだのダッテだの言うと思うから、僕らでお膳立てするしかなくなると思うよ」と。
それにはわぴこも大いに賛成だった。
だから今日は最終確認のつもりで千歳を呼び出したのだ。のんびりしてはいられない。


残念ながら、絶賛逃避中の純真無垢で夢見がちな親友はもう1人いるから。
そのせいで自分の大好きな千歳はこうしてお茶をしていても物憂げな表情を浮かべているのだから。
あちらは千歳以上にそれを見せないようにしているつもりらしいが……


「行動に出ちゃってるんだよ。ちょっと遠くに行ったくらいでわぴこと秀ちゃんを騙し通せるなんて思ってるあたりが、ほんと純粋すぎるよね」

「え、何か言った?わぴこ」

「天気良くならないねって言ったんだよ。でもそろそろ帰ってあげないと事務の子たちが残業になっちゃうかな」

「未来の院長婦人はお忙しいのねえ」

千歳が嬉しそうに笑う。


「全くだよ。大学病院からのお誘いに頷いてくれてれば、今頃わぴこはのんびり居間で晩御飯の献立でも考えてただろうに」

「ふふ、そう言いながら嬉しそうなんだから。彼が北田医院を継いだこと、一番嬉しいと思ってたのはあなたでしょ」

「まあそうなんだけど。というわけでわぴこは今日はこれでお暇(いとま)しまーす。年末のお休みに入ったらまた会おうね。秀ちゃんも会いたがってたよ。会長は無駄に健康で病院にもかかってくれないから中々会えないってさ」

「それは……申し訳ないと言うべきなのかしら、怒るべきなのかしら」

「あはは、怒っていいと思うよ」

わぴこは笑って、領収書を手に立ち上がった。



しょっちゅうこうしてお茶をするうちに決まった暗黙のルール。
毎度毎度私が奢る、いやわぴこがとやるのが面倒になってきた2人がたどり着いた結論は、交互に奢ればいいという実にシンプルなものだった。
どうせ毎回紅茶かコーヒーにケーキがつくだけ。
支払う金額も似たり寄ったりなのだからと気づけばそうなっていた。


店を出てガラス窓の向こうで手を振るわぴこに笑顔で手を振って見送り、千歳は腕時計を見る。
16時を少し回ったところ。
相変わらず話し出すと長居してしまう。
すっかり常連になってしまったこのおしゃれな喫茶店も、彼女たちが出会った頃にはなかったもの。
時代に取り残されているような気がして千歳は一瞬悲しそうに表情を歪ませたが、取り繕うように苦笑を浮かべた。


「さて、未来の院長婦人も帰っちゃったし、いつまでもここに居ても仕方ないわね」


千歳は1人暮らしなのでそこまで時間に縛られることはない。とは言えそろそろ晩御飯を作らないといけない頃ではあった。
このままダラダラしていると空腹に耐えかねて外食、となってしまいそうだ。



隣の椅子にかけてあるコートを手に、ほんの少しスッキリした顔で千歳も立ち上がるのだった。