旅立ちと出会い(執筆中)


16歳の誕生日を迎えた朝。

母に伴われて城への道を歩きながら、私は見慣れた街並みを見渡していた。

そう遠くないうちに、生まれ育ったこの街に別れを告げることになるのだ。今のうちにこの風景を目に焼き付けておきたい。


「サーシャ、無理は禁物よ。まずはこの大陸でしっかり力をつけてから……」
「わかってるよ、母さん。この大陸を出たらどんな強い魔物が出てくるかわからないんだし、ちゃんと経験を積んでから行くって。それまではまた家にも戻るんだからそんな心配そうな顔しないでよ」

門の前で母と向き合い、私は苦笑する。

「そうね…王様にきちんとご挨拶するのですよ。あぁ、母さん心配だわ……」
「大丈夫だってば。王様にお許しを頂いたらルイーダさんの酒場に行って仲間を見つけて、そうだな…そのままレーベの村まで行くかもしれない」
「わかったわ。しっかりね。いつでも戻っていらっしゃい、母さん待ってるから」
「うん。じゃあ、行ってきます」



勇者オルテガの遺志を継ぎ、魔王バラモスを倒す旅に出る。
今日はその許しを頂くため王に謁見する日。

志半ばで倒れた父。
そのあとを引き継ぐ、勇者の子。
次なる勇者。

街の人や王、この大陸の人々の期待。
そういったものがなければ、私は「父を魔王に殺された不幸な町娘」でいられただろうか。

でも、私は勇者オルテガの子だ。
勇者にふさわしくあろうと毎日鍛錬ばかりして生きてきた。
他の大陸の冒険者…いやこの大陸でも少し強い人から見ればまだまだヒヨっ子なのだろうけど。
それでも勇者の血を引く私は、もう立ち止まれないのだ。



─── 本当は。
心のどこかで、どうして私なのかと嘆く自分がいる。
父の仇を討ちたい気持ちに嘘はないし、平和を取り戻すために魔王を倒したいという気持ちもある。
でも、期待されればされるほど…怖かった。

太刀筋は己の心を映すと言った剣の師匠はそんな私の心に気付いていただろうか。魔法の先生は?
彼らは、厳しかったけれど私のことをとても大事にしてくれた。
死ぬんじゃないぞ、と昨日の最後の鍛錬のあと呟いた師匠は、とても苦しそうな顔をしていた。

それは母にしても同じ。

勇者オルテガの妻であり、新しき勇者の母。
けれど同時に、大事な一人娘を過酷な旅へと送り出さねばならない一人の母親。

つらいのは、私だけではないのだ。だから、この感情は……封印しなければ。


橋を渡りきり、王城の門を見上げた私に

「サーシャ、よく来たな。…王がお待ちだ」

顔なじみの兵士が、神妙な顔で言った。
私は ─── 笑って、うなずいた……。















「サーシャ、待ちなさい! ひとりで行くつもり!? 」

踵を返して酒場を後にしようとした私を、ルイーダさんが店の端まで通るような声で引き止める。
カウンターから慌てて飛び出してくる彼女に、苦笑しながら振り向いた。
彼女が悪い訳ではないのだ。

「まさか。そんな無茶はしないよ、ルイーダさん」

ルイーダの酒場は、どこにこれだけの人がいたのかというほどの冒険者で溢れかえっていた。
私が酒場に入るなり、勇者様、勇者様と人々が殺到してきたのだ。


私には生まれつき、不思議な力がある。
人の思いが気配としてわかる、という些細なちから。
嘘をついたり、心の内と違うことを言う人はことさら顕著に「感じる」。

このおじさんは、どうして嘘をつくんだろう。どうしてオルテガさんが亡くなって悲しいねって言いながら、嬉しそうに母さんに話しかけるんだろう。私のことを可愛いねと言いながら、とても邪魔に思っているのは何故?

そんな具合で。

だから当然、酒場に入った瞬間に後悔した。
権力欲や、名性欲。
勇者様御一行に加わって、有名になりたい。チヤホヤされたい。
そんな感情がまとめてぶつかってくるのだ、たまったものではない。

「人が多すぎて、これじゃ話もできないよ。言い方は悪いけど、死ぬ覚悟のない人だけでも省いておいて下さい。いつ死ぬかわからないような旅なんだ、できればご家族のある人も遠慮したい。とくにお子さんのいる人は……私みたいな思いをさせたくない。今日のところは街の外で鍛錬しておくから」

笑みを作る気も失せ、淡々と言えば、あれだけ賑わっていた酒場はシンと静まり返った。


「……そうね、その通りね。私の方で皆さんとお話してみるわ。ごめんなさいね、サーシャ」
「ありがとう、ルイーダさん」


数少ない、「嫌いじゃない」大人であるルイーダさん。
私の言わんとするところを察してくれたのか、申し訳なさそうに見送ってくれた。
何人かが酒場を出た私に追いすがって来たけれど、殺気を含んだ眼差しを向けるとみな立ちすくんでしまった。
情けない。こんな若輩にひと睨みされて動けなくなるなんて、よくそれで仲間になろうだなんて思えたもんだ。

怒りを通り越して呆れた私は、そのまま町を出た。
町のすぐ近くで魔物と戦って少し経験を積もう。
鍛錬では師匠としか打ち合っていない、人と魔物では立ち回りも変わってくるだろうし多対一の戦いにも慣れておきたい。














「何だ……こんなもんか」

初めて出会った魔物はスライム二匹。
鍛錬中に何度も見かけたことはあったし、師匠が倒すところも見ていたので手強い敵ではないというのは分かっていたけど。
体当たりで少しダメージは受けるものの、一太刀で倒せる。
さすがに銅の剣のと言えど真剣、切れ味は鋭かった。
その後、大ガラスにも遭遇したがこちらも対して苦もなく倒すことができた。

レーベの村はそんなに遠くないし、これなら一人でも大丈夫そうだな……。



ふう、と息をついて空を見上げる。
体力は人一倍あると自負していたし、実際体はそこまで疲れていないんだけど。
今日は王に目通りして、ルイーダの酒場では沢山の「負の感情」に囲まれて。
精神的に疲れてしまったせいか、何度か魔物と戦ったせいでずいぶんと足が重く感じる。

このままだと油断して、そこいらの木の陰で「勇者のピンチを救って仲間に! 」と身構えている何人かの冒険者の思惑通りになりかねないな…さすがに助けられては断りづらくなる。

「今日はとりあえず家に帰るか…」

そろそろ日も暮れる。
練習中だったメラをちゃんと唱えられるようになっただけでも収穫だ。










その日の晩。
家で夕飯を食べたあと、私は町を出ることにした。
母と話してみて、ルイーダさんのところが落ち着くまで数日はかかるだろうという結論に至ったので一度ひとりでレーベの村に向かうことにしたのだ。
夜にレーベまで行けるようなら行って、あちらで数日の間は経験を積み、またアリアハンへ戻る。

「夜は魔物も少し強いというから、危ないと思ったら無理せずに戻ってね。気をつけるのよ」
「わかった。それじゃまたね母さん」

心配そうな母の頬にキスをして、私は笑顔で家を出た。

決して楽観するわけではないが、一人で戦えるなら暫くは一人でいい。
人が苦手なのだ。
できればずっと一人がいいけれど、それでは父と同じ轍を踏むことになりかねない。
いずれ仲間は探さなければならない。
なら、せめて今だけでも一人を満喫しよう。

足取りも軽く、私は再び町を出た ─── 。



「ふう、昼よりは少し手こずるけど…戦えなくはないかなぁ…薬草も毒消し草も多めに持ったし、回復しながらならレーベまで何とか持ちそうだ」

アリアハンとレーベの中間あたりの草原で出くわしたバブルスライムを倒し、私は近くの小さな岩に腰を下ろした。
道具袋の中を確認し、星空を見上げる。

「でも、ちょっと疲れた……」

家で少し寝てくれば良かった。
早寝早起きの習慣もあるし、今日は昼の疲れもあって、強烈な眠気に襲われているのだ。

「ここはちょっと見通しが良すぎるかな…森に入って、火を起こさなくちゃ」

仮眠を取るにしても、焚き火をしなければ。
獣も魔物も、炎には寄ってこない。少なくともこの大陸では。
まだ動けないほどではないが、一人だと無理は死に繋がる。早めに休息を取っておいた方が良いだろう。

私は重い身体を引きずるようにして森へ入り、薪になりそうな木の枝を探しだした。





ようやく集めた枝にメラで火をつけ、ホッと息をつく。
そこここにあった魔物の気配は遠ざかった。
母が持たせてくれた聖水をまいておいたから、心配はないだろう。
火を絶やさないように気はつけないといけないけど。

「父さんも、こんな風だったのかな」

夜までに次の目的地にたどり着けない事もあっただろう。
むしろ、その方が多かったのではないか。アリアハン大陸は大きい方ではない。
でもほかの大陸は大きいところもあると聞いている。

それでも父さんは最後の地とされているネクロゴンドの火山まで、こんな旅を続けたんだ……

「まだまだ、父さんには追いつけないね……」

あたたかく揺らめく炎を見つめながら父を想う。
思い出すのはいかつい手と、笑うとくしゃっと歪む顔。

気が緩んで来たせいか、まぶたが重くなってきた。
銅の剣を抱きしめるようにして、木に背をあずける。

初めての野宿…か。慣れていかなくちゃ……いけない…な……















人の気配らしきものを感じた気がして目を開けた時には、すでに背後に「何か」がいた。
「それ」は私の首元に何かを突きつけて言う。

「大人しくしててくれりゃ、何もしないさ。悪いんだが金目のものを出してくれないか」

─── 盗賊?

一瞬ヒヤリとしたものの、すぐに違和感に気付く。
盗賊の類にしては……
振り向こうとすると首元の手に力がこもった。

「おっと、動くなよ。その剣より速くアンタを刺すこともできるぜ」
「いや……あんたはそうはしないよ」
「何?」

くす、と私は笑う。

「だって、殺気どころか敵意すら感じない。むしろ困惑と申し訳なさそうな気配が漂ってるもの。これ、ナイフじゃないだろ? 」

首元へ手をやり、突きつけられていたものを掴んで振り返る。

──────── 困ったような顔で、木の枝を持った男は私を見ていた……。





「卑怯な真似をしてすまなかった。切羽詰まってたとはいえ、許されることじゃないよな。本当に悪かった……俺はウルフっていうんだ」

焚き火に枝を足し、二人で火のそばに座る。
ウルフと名乗った若い男は申し訳なさそうに頭を深々と下げた。


アリアハンではあまり見ない、変わった髪型をしている。
耳の前に垂らした髪に着いているのは、小さなビーズ。
後ろ髪は長いのだろうが、そのまま垂らさず布でグルグルに巻いていた。首の後ろから生える長い尻尾のように見えなくもない。
顔は到底悪人には見えず、かなり整った…というか…美形、と言うのだろう。それも、相当な。
およそ野盗には見えない。

「いいよ。これでも人を見る目はあるんだ…昔からね。普通の人よりちょっと気配には鋭いから。私はサーシャ」
「ありがとう…サーシャか、若いな。一人旅か? ……と言っても行くところはあっちならレーベ、こっちならアリアハンしかないから旅なんて数日もありゃ終わるだろうが」


この人…私のことを知らないのかな?
私の名前を聞いても全く反応がないし……
ならわざわざ、勇者でございと言うこともないか。黙ってても…いいよね。

「とりあえずレーベに向かってるところだよ。いずれは何としてもこの大陸を出るつもりをしてるけどね。方法はあるはずだから。今は……修行中ってところかな」

王は明言しなかったが、この大陸を出る方法はあるらしい。それを見つけ、自力で出ていけるくらいにはならないとこの先の旅は困難だということなんだろう。

勇者としての最初の試練、てわけだ。

「へぇ、若い上に女の身で修行の旅とは恐れ入ったな。度胸もあるようだし……」
感じ入ったように言い、ウルフは私の方へ向き直る。

「なぁ、あんな事をしておいて虫のいいことをって思われるだろうが、ちょっと相談があるんだ」
「相談? 」
「ああ。俺が武器…というか荷物を持ってないのは、ごらんの通り、だろ?」


そう。
彼が持っていたのは木の枝一本のみだった。

「そうだね。こんな夜の森で丸腰って、私よりも度胸あると思うよ」

少しイタズラっぽく言ってやると、ウルフは苦虫を噛み潰したような顔をする。

「茶化すなよ……持ってかれちまったんだ、大ガラスのヤローに。うっかりまだ明るいからと火も起こさずに居眠りしちまったのがいけなかった。荷物と金はともかく、起きたら手入れをしようと荷物の上に置いてたナイフまで持って行かれちまってな……。これには参った。ここからレーベまではまだそれなりに距離もあるし、狩りをしようにも、火を起こそうにも道具がない。辺りはどんどん暗くなってきて魔物の気配も増え、お手上げ……ってやつさ」

そこで私の起こした火が見えてやって来たということか…。

「なるほど、わかった。レーベまででいいなら護衛するよ」
「察しがいいな。…まぁ、木の枝で金を出せってやってる時点でわかるか」
「あはは、まあね。荷物を丸ごと取られちゃったのなら、食べてないんだろ? これ、干し肉とパンとお水。レーベまでのつもりだったから、それくらいしか用意してないけど」

道具袋から出した食料を渡すと、彼はそれと私の顔を見比べた。
不思議なんだろうな、出会ったばかりで、しかも夜盗まがいのことをした男をこうも簡単に信用してることが。

不思議な力のことは説明しても信じて貰えないだろうし、仮に信じてもらえてもそれで構えられてしまうのは嫌だから、言わないつもりだし。

「いいのか? ハラは減ってるが…お前さんの分は? 」
「ちゃんとあるよ。タダで貰うのが申し訳ないって言うなら…そうだな、頼みを聞いてもらえれば」
「何だ? 」
「火の番をお願いしたい。明け方には出発するつもりだから、それまでの間」

ウルフはなるほど、と頷いた。

「そういうことなら、任せてくれ。俺は少し眠ったしな、お易い御用だ。取引成立だな…なら遠慮なく頂くぜ」
「うん。……私も食べよう。一人じゃなくなったおかげでようやく少し気が緩んだみたいだ…お腹が減った」

言って笑う。
──── そう、笑った。久しぶりに、何も気にせずに。心から。


不思議だな…この人といると気を張らないで済む。
私のことを勇者だと知らないで、一人の人間として接してくれているからだろうか。
レーベの村に着いてしまえば私の正体はバレてしまうのだろうけど、せめてそれまでは……このまま、ただの「サーシャ」として一緒にいたい。

「ははは、旅慣れてないのはお互い様か。んじゃ、レーベまでの短い間だが、宜しくなサーシャ」
「こちらこそ、よろしくウルフ」


──── ああ、このまま勇者だと知られなければどんなに良いか。
私を私として見てもらえることの何と幸せなことか。
知られたくない。
だけどそれは叶わぬ願い、なんだろうな……。












朝。

(仮)36

ビリビリと電流が走るような感覚に、上体をよじってただただ逃げようとするものの


先輩の胸を押し返す腕には力が入らず。




あ、まずい。
腰が抜ける。




かくっと膝が力を失った瞬間、先輩が素早く腰を支えてくれた。
ようやく耳から離れた先輩は、満足そうに笑みを深くして。


「ここ、弱そうだな?」


かすめるように耳を撫でられ、けれど足に力が入らなくて先輩に抱えられている状態ではろくに抵抗もできず、私は肩で息をしながらふるふると首を振った。


先輩はやれやれと笑って私を抱き抱える。
突然のことに慌てて先輩の首へ腕を回して捕まったが、すぐに下ろされた。



──── ベッドの上に。



え、と……これってつまり。


「声なら我慢しなくていいぜ。本来なら多少は隣近所に聞こえるかもしれないが、さっきこの部屋に結界を張ったからな。ここでの物音は一切外には聞こえない」


言われて初めて、さっき私すごい悲鳴を上げてたんじゃ、と思い至る。
声を抑えるとか、まるっきり頭からすっ飛んでいってた。





て、それよりも!!



「せ、せんぱい、お風呂がまだですっ」
「……案外、往生際が悪いな」
「ええっ!?」
「どうせ後で入ることになるんだ、今入ってもあまり意味はねーぞ?」


後で入ることに……なるとはどういう……あぁぁ考えたくない考えたくない考えたらゆでダコになっちゃう!
でももう考えちゃった!!


「ちゃんと意味は通じたらしいな」
「通じ……ましたけど……でも、だって、昨夜入ったきりで寝汗とかかいてるのに……」
「俺は気にしない」
「私が気にしますっ」


じゃあ、と先輩はニヤリと笑う。

あ、この顔。
なんか、どこかで見たような。
楽しそうというか、イタズラしてやろうみたいな顔。


「一緒に入るか? 広くはないが2人で入れないほど狭くもないぜ?」


先輩がくいと親指を立てて差したのは、バスルームのあたり。


「……先輩って、結構いじわるですよね」


そうですね、なんて言えないのが分かってて敢えて振るんだもん。


「お前が焦らすからな」



元から冗談のつもりだったのか、先輩は立ち上がることも無く。
ベッドの上で座る私の額にそっとキスを落とす。
それから、目の端に。頬に。鼻先に。
最後に、唇に。


「……優しくする」

蕩けそうなほど優しい微笑みで、優しい声でそう囁かれてしまったらもう

「………………はい」

頷くしかなかった。





でも、でも、どうしたらいいんだろう?
全部先輩に任せていればいいの?
それとも、服は自分で……ぬ、脱ぐのかな……?


小説とか漫画とかってそういう所は描かれてないことが多くて、実はよく分からない。
気付いたら裸になってたりするし、あまりハードな描写もないというか細かい描写はない。
そういうのがある本はR指定が入るだろうし。



「あーあのな……ちと言いにくいんだが」

先輩が、頭を掻きながらきまり悪そうに視線を逸らした。


な、なんかしなきゃいけなかったんだろうか。
私は戦々恐々、先輩の顔を見つめることしか出来ず。
何を言われるのかと構えていたら。


「こーゆーの、久しぶりすぎて加減が上手く行かねぇかもしれねー……」
「へっ?」
「社会人の頃にあるにはあったんだが、まぁ何だその、こっちにその気がなかったもんだから事務的にそういうアレをしててだな。ちゃんと、大事な相手を抱くっつーのは…………人間だった頃が最後なんだよ」


つまり、500年以上前ということだよね。
先輩が初めてじゃないっていうのは半ば予想していたというか、むしろ500年も生きてて一度もなかったと言われたら真っ向から疑うレベルだからいいとして。




「だからさ、痛いとかつらいとかは我慢しないで言ってくれ。お前にはそんな思いは絶対にさせたくない」


先輩の誠意がめいっぱい伝わって、私は純粋に嬉しかった。
社会人だった頃の云々は、そりゃ先輩にも色々あったんだろうし……出会ってもいない頃のことをどうこう考えたって仕方がないから。




今、先輩が私だけを見てて。
私を大事な人だと言ってくれて。
私が欲しいのだと、そう思ってくれていること。
それが、一番大事で、それ以外にはないんだ。




私が頷くのを確認すると先輩は少しホッとしたようだった。

ああ、こんな感情が何百年ぶりとか、言ってたよねそう言えば。
瑛さんも、何百年ぶりかしらねって言ってたし……瑛さんは先輩よりも長生きなんだろうか。



もしかしなくてもこれは、先輩も緊張してるってことよね?


緊張してるのが自分だけじゃないってわかって少し落ち着いた気がする。


「私、本当に何も分からなくて……こうして欲しいとか、そういうの……先輩が教えてくださいね?」
「……ああ、わかった」
「大好きです……先輩」
「好きだぜ、琴馬」



どちらからともなく、私たちは身体を寄せて抱き合った。



先輩の温もり、香り、鼓動。
私の安定剤は目の前にある。
だから、大丈夫。





私は今夜、この人のものになる。

(仮)35

桐光山を出て寮へ戻る時、少し肌寒い風を切って進むバイクにまたがって先輩の体温を感じながら思ったことがあった。




頑張りなさいよと言った瑛さんと、焦った様子の先輩。
あの時は、どういう意味の会話が交わされていたのかわからなかったけれど。

こうして先輩の温もりを感じて、離れたくないなぁ、なんて思ったら


ああ、そうか、って。
あっさり、わかってしまった。


今日、先輩と未来を誓い合ったんだ。
恋人同士になったんだ、私。

もう、昨日のように何も知らない私ではなくて。
先輩の部屋へ行くこと、それが何を許すと言うことなのかを知っている。


「その先を見る」勇気は、今日。
命懸けで示したのだから。


そして、先輩が私を自分の部屋に帰らせようとするだろうなっていうのも、何となくだけどわかってる。
きっと先輩のことだから……根は真面目で優しい人だから……

いくら想いを通じたとはいっても出会って間もない私に手は出せない、と思っているんじゃないかな。


私が昨日、先輩の部屋で思ったように。
軽薄だと思われるのを恐れているんじゃないか、と思う。





ねえ、先輩。
案外嘘が下手なんですね。
さっきからずーっと、口数も笑顔も減ってますよ?





意外ではあるけれど、先輩が少し取り乱してくれたおかげか私の方は驚くほど冷静だった。


出会って2日の相手に告白をして、今から部屋へ行って


この人に、抱かれるのかもしれないんだと。


もちろん、想像したらすごく恥ずかしくて
顔も赤くなってただろうと思うけど。
精一杯がんばって
私は構わないのだと態度で示してみよう、と思ったのだった。













でも今、早くもその決意が崩れ去ろうとしていた。

抱きしめられたまま、真っ向から目を見つめて言われた言葉に、ただ一言はいと答えることも出来なくて。




今だってこんなに近いのに。
こんなに、心臓がドキドキいってるのに。


私たちが今からしようとしている事は、もっと近くに互いを感じる行為で。


耐えられるんだろうか、と不安になる。


だけど先輩は真剣な表情で私の答えを待ってて……



まだ勇気が出ませんと言えば、先輩はまた苦笑いをひとつ浮かべて、昨日のように私をただ抱きしめて眠るのだろう。
今の関係でそれがどれほど酷い仕打ちなのかは、いくら私でもわかる。







触れさせてくれと、先輩は言った。


私は?
どうしたいんだろう。


私は ────

「私も、先輩に、触れたい……です」


するりと、口から零れたのは紛うことなき私の本音だった。

この人に触れたい。

もっと近くに感じたい。

なれるものなら、ドロドロに溶けて、混ざり合って、ひとつになってしまいたい。



この人の全てが



欲しい。



「私って、けっこう欲張りだったんだ……」
「琴馬?」
「ふふ。先輩の全部、ぜーんぶ欲しいみたい、です」


先輩の背中に腕を回してぎゅっとしがみつく。
ドッドッと駆け足の鼓動が聞こえた。

先輩は、馬鹿と焦ったように呟いて、私の頭を撫でて。


「頼むから、あんまり可愛い事ばかり言わないでくれ。俺の理性はそんなに頑丈に出来てねぇんだよ」


髪を梳くようにして撫でられて、心地良さに目を閉じる。



優しい先輩。
でも、ね。
女って、覚悟を決めたら怖いみたいですよ?








私は先輩の胸をやんわり押して、少しだけ上体を離し

両腕を先輩の首に巻き付けて

先輩の髪に指を絡ませて

思い切り背伸びをすると


生まれて初めて、自分から唇を重ねた。



すかさず、先輩の腕が私の背を支える。
少し上体を屈めてくれたので私の足は再び地面に着地した。


唇を離そうとしたら ────

「煽るなって言ってんだろ? 悪い子猫だな」

唇の距離はゼロのまま。
先輩が囁いた。

その目は刺すように私の目を見つめていて、でも触れたままの唇には笑みを浮かべて。


何かを言おうと口を開いたら ──── 噛み付かれた。

いや、噛み付くようにして先輩の唇が押し付けられた、というのか。





するりと口内に押し込まれたのは、先輩の熱い舌。
それは柔らかく私の舌の付け根まで滑り込んで絡まり、私の舌を引きずり出す。


唇で甘噛みし、優しく歯を立てて、裏側をなぞるように舐めあげては押し返し、また吸い上げる。


じゅ、と唾液の絡まる音が静かな部屋に響いて、恥ずかしさが込み上げた。
それでも先輩はまだ離してくれる気はないようで。


歯の裏側、歯茎の境目あたりを舌先でなぞられて
思わず、喉の奥から声が出た。


自分でも驚くくらい甘い声。
くぐもったそれは先輩の口内に吸い込まれて消えて



満足したのか、火をつけたのか……背を支えていた先輩の左手が私の頬に触れ、髪を耳にかけた、と思ったら


「……ぁっ!」


耳の中に、先輩の指先が差し込まれた。
くすぐったい、はずだったのに。
甘い痺れが耳から背中、腰まで駆け抜けて


甲高い声が漏れた。
かすめるように、先輩は私の耳を弄ぶ。


あ、あ、と途切れ途切れにあがる、甘えるような悲鳴がまるで自分のものではないかのようで。



甘い痺れに身体は自然と逃げるような体勢になり。
唇を離して身体をよじれば、あろうことか先輩は私の耳に口付けた。


ひゃっと悲鳴が飛び出して身体が跳ねる。


くす、と笑う先輩の息遣いが耳にダイレクトに伝わって、それすらも甘い痺れを生んだ。

そして、粘着質な音が聞こえたと思ったら ────


「やあぁっ、あ、あー……!」



先輩の舌が、耳の中に入り込んできた。
暖かく湿ったそれは、さっき指が撫でていたところをなぞるように動き回って。


ついに私は声を抑えきれなくなって
泣くような、ねだるような、懇願するような悲鳴を上げた。

(仮)34

 
 
 
 
俺の目の前には小悪魔がいる。
それも、天然ものだ。







瑛の登場ですっかり毒気を抜かれたというか、水を差されたというか……ともかく、あの後俺たちもすぐに店を出た。

まあ、軽く21時を過ぎていたのも理由のひとつではあったが……
あのままあそこにいたら、俺まで雰囲気に飲まれそうだったというのが本音だったりする。





瑛が悠然と去った後、ふと視線を戻せばそこには。

小首を傾げながらカクテルをちびちび飲む琴馬の姿があった。

こいつ酔っ払ってないか?
ノンアルコールカクテルで?


有り得ないとは言いきれない。
場の雰囲気だとか、むしろ瑛の雰囲気だとかに酔った可能性が……

いずれにしてもこのままではまずいと判断し、そそくさと店を後にして、何事もなかったかのように寮まで戻ってきたのだ。



そこまでは良かった。
ああ……今日は色々あって疲れただろ、しっかり休むんだぜと告げられれば、なお良かったのにな。












駐輪場にバイクを置いてすぐだった。
琴馬が、俺の服の袖口をキュッと掴んで引っ張ったのだ。

「あの……手、を」

繋ぎたいです……と照れた表情を見せられて。
黙ってぎゅっと琴馬の手を握った。
そうすると今度は違う、と言う。

「こうです」

指と指を絡ませた、いわゆる恋人つなぎ……というやつだ。

少し指先に力を込めた琴馬は、嬉しそうにはにかみながら俺を見上げてくる。





耐えろ俺。
エレベーターホールまでだ、そこまで耐えれば……3階でさっさと降りてしまえば……




そんな俺の涙ぐましい努力を。
こいつはまた打ち砕く勢いでやらかしてくれた。

「先輩の部屋まで、このまま繋いでてもいいですか?」





なぜ、「いいぜ」と答えたんだろうな。

まぁ理由はわかってるんだが。
こいつの頼みを断れるわけもないし、それ以上に



自分が、期待してしまっているからだ。



なあ琴馬。
お前、今、狼の巣にお邪魔していいですかって聞いたようなもんだぞ。

そう言いたいところをぐっとこらえる。





何を躊躇うことがある?
琴馬が自ら飛び込んできたんだ、ありがたく頂戴すればいい。

そう囁く自分と

こいつの危機感のなさは知ってるだろう?
うっかり手なんか出したら傷付けるに決まってる。

そう諌める自分とがいよいよ死闘を開始したようだ。







長い時間を生きて、それなりにいろんな経験もしてきたつもりだったが……


社会人の時は、本気で恋には落ちなかったものの一応付き合いがある、と言えなくもない女もいた。
向こうが擦り寄って来たのを拒まなかったというだけの話だが。


こちらにその気がないのは向こうも気付いたのだろう、何度目かのデートの後のホテルで「もう終わりにしましょ」という決まり文句を枕と共に投げつけられた。



あの頃は、空虚感に苛まれていた。
いや、こいつに出会うまでずっとかもしれない。

俗世のあれこれが、ただ面倒で。
かと言って、妖怪の世界に浸ると全てが停滞しそうで。

まだ、人間界のほうがいくらかマシだというだけでこちらにいた。


それなりに楽しいことも、こちらにはあるし。
時間の流れを忘れてしまうよりは。




だがこいつに出会って、俺の世界で渦を巻いていた時間は一気に流れ出したんだ。

立っていられないほどの速さで世界が回りだす。
もう、あの緩やかな澱みの中には戻れない。





「先輩」

部屋に入ると、琴馬は申し訳なさそうに目を伏せた。

「さすがにそろそろ電池がなくなりそうです」
「あ、ああスマホか。俺のが使えるといいが……」


どれ、と手を出して琴馬のスマートフォンを受け取る。
コンセントから伸びる充電器の端子を差し込むと、ポンと音がして充電中のランプが点灯した。


「大丈夫そうだな」
「良かった! あっそうだ、お風呂まだ入ってないや」




普段通りの琴馬、だよな。
昨日と何ら変わりない。




「先輩、変な質問かもしれないんですけど」
「ん?」
「えっとそのぅ、お風呂って、先に入るものですよ、ね……?」
「……ん?」




先に?

何の?




「で、ですからその! あの……このままだと汗とかかいてるから恥ずかしい、し……」

もじもじ。
琴馬が唇を指でぐにぐに弄びながら目を逸らす。






こいつは何を言ってるんだ、と一瞬考えたのは仕方の無いことだと思う。


何しろこいつは純情で無垢だと、俺が勝手に決め込んでいたわけで。
経験がないのは聞いたが、だからと言って知識がないことにはならないというのをすっかり失念していたのだ。



もしかしなくても、「このあと」のことを言ってるんじゃないかと思い至るまで少しの間、俺は固まっていた。





そんな俺を見て琴馬は何を思ったのか、顔を真っ赤にして。

まあおそらく、私ってば早とちりしちゃったんだ、とかそんなところだろうが……


「ななななんでもありませんっ! 私帰ります!」


スマートフォンを置きっぱなしにしていることも忘れて、俺の横をすり抜けて帰ろうとする。


……最初に会った時のように。


だから俺も、あの時と同じように。
琴馬の腕を掴んで、くるりと引き戻して。





「……帰るなよ」


あの時と違うのは

俺が、琴馬を抱きしめていること。



俺の腕の中で琴馬はもぞもぞと可愛らしい抵抗をしているが、腕を解いてはやらない。


「夢であってたまるか、なんて言っておきながら……これは夢なんじゃないか、朝起きたら上の部屋は空っぽで、お前も居ないんじゃないか、なんて思ってるんだよ」


ここまで自分に都合がいいと、さすがにそう思うのも無理はないだろ?


「えっ……せ、先輩が?」


琴馬が抵抗をやめて、目を真ん丸にして見上げてくる。
よほど意外だったらしい。


「だから、帰るなよ。もう無理だと思ったら言ってくれていい。なあ、琴馬」


その時は何としてでも歯止めを効かせてやるから。
だから、どうか。


「……お前に、触れさせてくれ」

(仮)33

不思議な感覚だった。



テレビでオネェという人たちを見ても、嫌悪感もなければ特に好きだとも思わなかったのに。



黒瀬さんは、とてもとても素敵で。
オネェだったからこその魅力なんだなって、素直にそう思えた。




「拓はまだ知らないのか?」
「知ってたらあたしがここでのんびりお酒飲んでると思う?」
「それもそうか……あいつに知られてないのがせめてもの救いだな」
「とは言っても、いつまでも秘密にしておけるコトじゃないわよ。あんたが本気なら早めに顔見せには連れてくるべきかもね」


先輩と黒瀬さんが話し出したのは、おそらく他の大天狗のみなさんについて、なのだろう。
私はカクテルをちびちび飲みながらじっと聞いている。


「まあ、そのつもりではいるが……明日は先にやりたい事があるんだよ」
「ああ、鬼を封じた木の話?」
「お前、一体どこから知ってんだよ」



呆れたように言われて黒瀬さんはふふんと笑う。

「あたしに隠し事なんて無駄よ。あたしが琴馬ちゃんをすんなり認めた理由がわかる? この子の覚悟……あたしも見せてもらったわ」



覚悟。
それはきっと、私が先輩を引き止めたあの時の事だ。
あの時すでに、黒瀬さんは近くにいたということになる。



「怒らないでよね僧ちゃん。単に覗いてたわけじゃなくて、あたしなりに見極める必要があったんだから」
「わかってるよ……」
「この子が大した覚悟もなくあんたを繋ぎ止めるつもりなら、あたしが記憶を消してたわ。だけどね、あたしだから分かることもあるの」


黒瀬さんが、すっと手を伸ばして、テーブルの上に置いていた私の右手をそっと取った。

彼の手は男の人にしては細く綺麗で、それでも女の人ほどは柔らかくもなく。
長い指で私の指をなぞると、黒瀬さんはニコッと笑った。


「女にはね、命をかけてもいい恋が、一生に一度はあるものなの。この子はあんたのためならきっと命を張るわ。あたしにはそれがわかる。だから、ね」




黒瀬さんが私の右手薬指をスイと2本の指で挟む。

「最大級の祝福を」
「ひゃっ」

そのまま手を持ち上げられて、付け根に口付けられた。


ほんの一瞬、指に圧迫感があり、光の指輪のようなものが見えた気がした。



何が起きたのかわからず、ただ困惑していると黒瀬さんはそっと私の手をテーブルの上に戻す。


「隠形の術にあたしなりのアレンジを加えた特別製の護符よ」


先輩の顔を見れば、度肝を抜かれたと形容していいほど驚いた表情で固まっている。
それを見て黒瀬さんは意味深な微笑みを浮かべた。



「お前がここまでするとは思わなかった……本当に琴馬のことを気に入ってくれたんだな」
「あたしは口だけじゃないのよ。協力してあげるって言ったでしょ? その術については説明いらないわよね」
「ああ……姿は見えているのに印象に残らないようにする、お前の最高の術だな。確かにいたはずなのに、思い出せない……そう思わせる」



先輩は私に向かって良かったなと微笑む。


「これで、お前を襲った奴がまた来たとしても、お前のことをぼんやりとしか思い出せなくなるはずだ。気配を探ろうとしても探れない。よくあるだろ? 興味が無いと、何度も見たはずのCMなのに思い出せなかったりするアレ」


なるほど、確かにぼんやりとしか見ていないとコマーシャルって案外覚えていないかもしれない。


「お前は無意識に力をダダ漏れにして歩いてるから、それを隠してるって言った方がしっくり来るかもな。妖にしろ霊にしろ、そういうのは目に付くからちょっかい掛けられやすいんだよ」
「綺麗な色の光が見えてたからね~」

黒瀬さんもうん、と頷く。




「黒瀬さん、ありがとうございます」

私は深々と頭を下げた。
本当は立ち上がって、最敬礼をしたいくらいだったけど。
レストランの中だと目立つので、これで我慢。


「いいのよ。あたしが琴馬ちゃんを気に入ったから勝手にやったことだもの。それよりも、黒瀬さんじゃなくて瑛って呼んでちょうだいな」
「あ、瑛……さん」
「そうそう。困った事があったらお兄さんに言うのよ~いつでも助けてあげるからね」
「……はいっ!」


満面の笑みでそう返事すると瑛さんは目を細めて微笑み、傍に置いていたエナメルのバッグからスマートフォンを取り出した。



あ、この流れは……

「というわけで、番号交換、ね」

ですよね。

まさか、家族以外の連絡先が入っていなかった私のスマートフォンに、大天狗の連絡先が2件も入ることになろうとは。






番号を交換すると瑛さんはスマートフォンを片手で操作して、あらやだと呟いた。

「メッセージが来てたわ。あのコったら……電話を鳴らしなさいっていつも言ってるのに……」

んもー、とブツブツ言いながら瑛さんは返事を打ち込んで。


「それじゃ、あたしは失礼するわね。近いうちにまた会いましょ」

席を立ちながら、ウインクをひとつ。
ここまでウインクが似合う人も珍しい。




「ふふっ。頑張んなさいよ、僧ちゃん?」

先輩の肩にそっと手を置いて、含みのある笑い声とともにそう言えば
先輩は焦ったように余計な世話だと早口で返して。

コロコロと、綺麗な声で笑いながら瑛さんは去って行った。



「あの野郎、余計な事を思い出させやがって」

先輩は珍しく情けない表情で、テーブルに肘をつく。


なんの事か分からなくて、でもふたりの間ではどうやら話は通じているらしく……
私はただ首を傾げて、残りのプッシー・キャットを飲み干すのだった。

(仮)32

ふわっと緩くウェーブしたセミロングの髪は艶やかで、少し垂れ目がちの瞳は長いまつ毛の奥に黒曜のように煌めき、左目の下には色っぽい泣きぼくろ。

紅過ぎないワイン色のルージュは色白な肌によく映えていて。

私の頬をつついた指先は、黄昏時の空の色みたいに彩られていて。




どこからどう見ても、すごく綺麗なお姉さんなのに。


この人は今何て言っただろうか。




「お前それやめろっていつも言ってるだろうが。見ろ、放心してるぞ」

先輩が諌めても、お姉さん……いやお兄さん? は楽しそうに笑うばかりで。




お兄さん。




改めてよくよく見ると、確かに体つきは女性よりもややしっかりしているし、胸にパッドが入っているわけでもなく、スカートを履いている訳でもなくて。

短いマント風の襟がついた濃紺のベルベット生地のカットソーに、黒のスリムパンツ。


服装自体はオシャレなお兄さんと言えなくもない。
金色の雫が揺れるようなイヤリングは、お兄さんは着けないとは思うけど。



「あー今風にいうと何になるんだっけな……」
「まぁ、オネェってやつかしらね」
「オカマって言うと怒るもんな」
「僧ちゃん?」
「痛い痛いすいません」



オネェ……イマイチ定義が分かってないけど、テレビとかでも見かけることはある。


「あたしはね、別に男が好きなわけじゃないのよ。ちゃーんと可愛い女の子が恋愛対象。ただそうねぇ、心はどっちかっていうと女なのよね。お洒落もしたいし、女の子で集まって恋バナとかしたいし?」


認識としては、やっぱりお姉さんでいいのかな。




「あー……こいつは黒瀬瑛(くろせあきら)。まぁ……古い知り合いだ」


言葉尻を濁した先輩を見てピンと来る。

多分、この人も天狗……ううん大天狗のひとりなんだ。
時代に溶け込んでるあたりは先輩に負けず劣らずだけど、みんなこうなのかな。


「こいつは高校の後輩で日生琴馬。そそっかしいとこがあるから面倒見てやってる」


無難に紹介してるし、さっきの先輩の態度から考えても、私が先輩の正体を知ってる事は秘密にしておいたほうが良さそう……?





「ふぅん……ねぇ僧ちゃん。もうお食事も済んでるんでしょ。少し話さない?」

ね? と黒瀬さんは先輩の隣の席を指さした。
同席したい、という事らしい。


先輩は渋い顔をしたが、黙って奥の席にずれた。
ありがと、と呟いて黒瀬さんが席に着くとウェイターがすっとやって来て、黒瀬さんの伝票をテーブルに置く。


「あらありがとう。マティーニを下さる?」

マティーニって、聞いた事ある。

すごくキツいカクテルじゃなかったっけ……
この人、さっきも飲み足りないとか言ってたけど、お酒強いんだな。


「で、何だよ」


先輩は彼? が苦手なのか、さっきからぶっきらぼうな感じだ。
黒瀬さんのほうは慣れているのか、気にした様子もない。


「まあまあ、そう慌てないの。琴馬ちゃんのそれ、美味しそうね。何を頼んだのかしら」
「え? ええっと、確かプ」
「余計な詮索はいいから、本題に入れ」

先輩が慌てて遮る。


黒瀬さんは可笑しそうに、口元に手を当てて肩を揺らした。


「可愛い子猫ちゃんだものねぇ」

プ、と聞いて一瞬でそれが出るって、凄い……


「うるさいな。お前は俺をからかいにわざわざ来たのか?」
「まさか。……あぁ、ありがとう」


ちょうどマティーニが運ばれてくる。

ごく薄い金色の液体がカクテル・グラスに満たされて、中には確か……オリーブの実だったかがひとつ沈んでいた。

黒瀬さんはそれに口をつけるとふう、と息を吐いて。





「ねえ僧ちゃん。拓(たく)ちゃんが黙ってないと思うわよ、人間の娘さんに手なんか出したら」

冷やりとするような、低い声。

先輩がバッと振り向き黒瀬さんの顔を凝視したが、彼は何食わぬ顔でマティーニを味わっている。



「大天狗イチの情報通を舐めてもらっちゃ困るわね。あんたが力を使った波動……あたしの可愛い下僕ちゃんがキャッチしたのよ。おかげで早々に女子会を抜ける羽目になっちゃったじゃない」
「筒抜けってこと、か」

よく分からないけど、黒瀬さんにはバレてしまっているようだ。
まずいんじゃないかな……


ひやりと背中を冷たいものが流れる。
先輩も警戒したように彼を見つめたまま動かない。



「カクテル、ぬるくなっちゃうわよ。飲んだら?」

勿体ないでしょ、と人差し指を唇に当てて妖艶に微笑む黒瀬さん。


「俺は……譲るつもりはねぇぞ」

先輩が硬い声色で絞り出すように言えば。
黒瀬さんは、一瞬の間のあと……


ぷ、と吹き出した。



「あーやだやだ、マジな顔しちゃって」

ケラケラと笑って、ふと黒瀬さんの表情が柔らかくなった。



「……人間の娘に惚れたって、100年もしないうちに居なくなっちゃうのよ?それでもあんたはこの子を愛するって言うのかしら」
「んな事は言われなくても分かってんだよ」



先輩も警戒を解いて、残ったヴァージン・メアリーをぐっと煽る。

居心地悪そうに目を逸らす先輩を見て、黒瀬さんはとても綺麗な微笑みを浮かべた。
慈しむような、優しい微笑み。


「……本気なのね、本当に。あんたがそんな顔してるのを見るのは何百年ぶりかしら」


黒瀬さんがふと私を見つめてきた。
やっぱり、優しい笑顔。


今、かなり大変な状況にいるのはわかってるんだけど……
またもや、私の本能はこう言っていた。
この人は信じても大丈夫、と。





そして、黒瀬さんはその綺麗な指先で下唇をするりと撫でると、ツイと私に向かって投げるような仕草をして。


「ふふっ。面白いじゃない。いいわ、あたしは協力してあげる。この子ならきっと大丈夫……そう思えるしね。あーほんと可愛いわ、あたしに乗り換えてくれてもいいのよ?」


最後は茶化すように笑った黒瀬さんに、先輩は少し驚いて……やがて、目を閉じると小さく「サンキュ」と呟いた。


「大天狗ふたりがあなたのみ・か・た。心配しないで、あなたはそのままのあなたでいればいいわよ、琴馬ちゃん」


ね、と彼は私の唇に人差し指を当ててウインクし、それからマティーニをぐっと飲み干した。

(仮)31

俺の問いかけに、琴馬は滅相もない!と大袈裟に首を振った。


「私にそんな力は無いですよう、霊と遭遇 するだけで金縛りにかかっちゃうような私では祓えるわけもないですし……」

それに、と。

神妙な顔つきで琴馬は窓から見える夜景を見つめる。
その横顔は、夜景ではなくもっと遠くを見ているような、初めて見る顔で。




「おばーちゃんも、もしかしたら祓うつもりがないのかも……」
「どういう事だ?」

琴馬の瞳が不安そうに揺れる。

「何かがいつもと違う気がするんです。おばーちゃん、あの木の事を知っているような……私聞いちゃったんです、私にひと通り説明したあと、おばーちゃん……あまり時間はなさそうだっ、て……ぽつんと呟いて」


何かを隠してる気がするんです、と琴馬は項垂れた。
隠し事なんていくらでもあったけど、仕事に関しては一度も無かったのに、と。



「ふむ……ばーさんが祓うつもりがないかもってのは、お前の勘か?」
「それは……そうですね。長年一緒に暮らしてきたから何となく分かるんです。祓う気がある時のおばーちゃんの感じ。今回はそれが全くなくて」


家族ってのは見てないようでそういう所は結構気が付くもんだしな。
琴馬の勘も馬鹿にはできねぇ。
それに、こいつ自身が祓うわけではないとなれば、何とでもなる……か。





「よし分かった。お前が祓うわけじゃなく、調査するだけなんだな」

俺の問いに琴馬は素直に頷いた。

「ならいい。その調査、俺も手伝ってやるよ」
「えっ!! い、いいんですか?」
「あくまで調査だってんなら、俺の目的も同じなわけだしな。協力体制を取ろうってだけの話だ、それならアイツらも文句は言わねぇだろ」


どのみち……仮に祓うつもりがあったのだとしても。
俺はもう、全ての妖怪を敵に回してでもこいつを助けてやろうとするんだろうけどな……。











それより、だ。


今ここに来て、俺は大問題に直面していた。
琴馬と俺の関係は、今朝までの先輩と後輩ではなくなっているわけで。

早い話が……いや遅く言っても変わらんか。
つまり、恋人同士になった、わけだ。


「このあと、どうする?」
「へっ?」


やっぱりこいつも考えてなかったな。
何がですかと言わんばかりの顔で見つめられて俺は閉口する。


「あーつまりだな……いや、やっぱいい」
「えぇ何ですか先輩!」


俺の可愛い子猫は、見た目通り純真無垢だろうからなぁ……
このまま帰って、お前は俺と一緒のベッドで眠るのか? とは聞けない、さすがに。



時計に目を落とせばもう19時を過ぎている。
ここからは大人の時間と言えなくもない。
と言って、ホテルに誘うとかそんなつもりは毛頭ないが。

ただ、この流れだと寮に帰ってじゃあまた明日、とはならないような気がするんだよな。



問題は、俺が耐えられるのかってことだ。

昨日とは違う、こいつの気持ちもハッキリ分かってしまっている。

昨日より……ブレーキは確実に弱っている。


手を出してしまわないかと、自分が怖い。


昨日の今日だぞ?
出会ってすぐに手を出すって紛うことなき不良じゃねえか?
いやまぁ、これから先こいつ以外を愛することはないわけだけど、だからってなぁ……




「……ぱい、先輩!」
「あっ!? な、なんだ?」


いつから呼び続けていたのか、声をひそめてはいるが琴馬が困ったように俺を見ていた。


「あの……さっきから、あのお姉さんが……」

ちら、と琴馬が視線をずらした。
振り返るとカウンター席にいる人物が、こちらに向かってヒラヒラと手を振っている……?


「お知り合いですか? ずっとニコニコしてこっちに手を振ってらして……」




「それ」が席を立つ姿を確認した俺は、すかさず身体を反転させて琴馬の方に向き直った。



「知り合いじゃない。あれは見ちゃいけないものだ」
「えっ? ど、どういう……」
「見るな、目を合わせるな、あんな奴は知らん」







「あ~ら、随分な言い草じゃない僧ちゃん」

頭上から降ってきたハスキーボイスに、あぁ……と頭を抱える。

なんで、よりによってこいつが。


「何だってお前がここにいるんだよ、瑛(あきら)」


ギッと睨みつけるとそいつはクスクスと笑って事も無げに言った。


「奇遇よねぇ、あたしはお友達と女子会だったの。もう解散したけど飲み足りないから独りで飲んでたら、どこかで見た顔がいるじゃない?」
「女子会だと? お前は」


ぽん……と。
肩に手を乗せられた。

その所作は優雅でしなやかだが、俺の肩を掴む力は優雅でもなんでもない。痛い。


「そんなことより、この可愛い子は誰なのよ。あたしにも紹介して頂戴な」

痛い痛い。
わかったから離せっての。

「後輩だよ、本日ツーリングデビューだ」
「へぇ、じゃ高校生ね。お名前は?」


琴馬はボーッと瑛を見上げていたが、顔を赤らめて小さな声で日生琴馬です、と返した。


「琴馬ちゃんね、か~わいい子じゃない。僧ちゃんには勿体ないわねぇ」
「大きなお世話だ」
「うふふ、琴馬ちゃん。こんなガキんちょやめて、あたしにしない?」



ひえっと琴馬から声が上がる。
瑛はその美貌をフルに活用して、ウインクまで飛ばして琴馬の頬をツンとつついてみせたのだ。


「あああの、お、お姉さんはとっても綺麗で素敵だと思うんですけど、わたわた私そういう趣味は……」


瑛は楽しげにコロコロ笑う。


「ありがと、綺麗だなんて嬉しいわ~。でもね、あたしお姉さんじゃなくて……」



俺は再び頭を抱えた。
こいつは初対面の相手には必ずやる事がある。
相手が何であろうとも、だ。





「お兄さん、なのよ」