(仮)34

 
 
 
 
俺の目の前には小悪魔がいる。
それも、天然ものだ。







瑛の登場ですっかり毒気を抜かれたというか、水を差されたというか……ともかく、あの後俺たちもすぐに店を出た。

まあ、軽く21時を過ぎていたのも理由のひとつではあったが……
あのままあそこにいたら、俺まで雰囲気に飲まれそうだったというのが本音だったりする。





瑛が悠然と去った後、ふと視線を戻せばそこには。

小首を傾げながらカクテルをちびちび飲む琴馬の姿があった。

こいつ酔っ払ってないか?
ノンアルコールカクテルで?


有り得ないとは言いきれない。
場の雰囲気だとか、むしろ瑛の雰囲気だとかに酔った可能性が……

いずれにしてもこのままではまずいと判断し、そそくさと店を後にして、何事もなかったかのように寮まで戻ってきたのだ。



そこまでは良かった。
ああ……今日は色々あって疲れただろ、しっかり休むんだぜと告げられれば、なお良かったのにな。












駐輪場にバイクを置いてすぐだった。
琴馬が、俺の服の袖口をキュッと掴んで引っ張ったのだ。

「あの……手、を」

繋ぎたいです……と照れた表情を見せられて。
黙ってぎゅっと琴馬の手を握った。
そうすると今度は違う、と言う。

「こうです」

指と指を絡ませた、いわゆる恋人つなぎ……というやつだ。

少し指先に力を込めた琴馬は、嬉しそうにはにかみながら俺を見上げてくる。





耐えろ俺。
エレベーターホールまでだ、そこまで耐えれば……3階でさっさと降りてしまえば……




そんな俺の涙ぐましい努力を。
こいつはまた打ち砕く勢いでやらかしてくれた。

「先輩の部屋まで、このまま繋いでてもいいですか?」





なぜ、「いいぜ」と答えたんだろうな。

まぁ理由はわかってるんだが。
こいつの頼みを断れるわけもないし、それ以上に



自分が、期待してしまっているからだ。



なあ琴馬。
お前、今、狼の巣にお邪魔していいですかって聞いたようなもんだぞ。

そう言いたいところをぐっとこらえる。





何を躊躇うことがある?
琴馬が自ら飛び込んできたんだ、ありがたく頂戴すればいい。

そう囁く自分と

こいつの危機感のなさは知ってるだろう?
うっかり手なんか出したら傷付けるに決まってる。

そう諌める自分とがいよいよ死闘を開始したようだ。







長い時間を生きて、それなりにいろんな経験もしてきたつもりだったが……


社会人の時は、本気で恋には落ちなかったものの一応付き合いがある、と言えなくもない女もいた。
向こうが擦り寄って来たのを拒まなかったというだけの話だが。


こちらにその気がないのは向こうも気付いたのだろう、何度目かのデートの後のホテルで「もう終わりにしましょ」という決まり文句を枕と共に投げつけられた。



あの頃は、空虚感に苛まれていた。
いや、こいつに出会うまでずっとかもしれない。

俗世のあれこれが、ただ面倒で。
かと言って、妖怪の世界に浸ると全てが停滞しそうで。

まだ、人間界のほうがいくらかマシだというだけでこちらにいた。


それなりに楽しいことも、こちらにはあるし。
時間の流れを忘れてしまうよりは。




だがこいつに出会って、俺の世界で渦を巻いていた時間は一気に流れ出したんだ。

立っていられないほどの速さで世界が回りだす。
もう、あの緩やかな澱みの中には戻れない。





「先輩」

部屋に入ると、琴馬は申し訳なさそうに目を伏せた。

「さすがにそろそろ電池がなくなりそうです」
「あ、ああスマホか。俺のが使えるといいが……」


どれ、と手を出して琴馬のスマートフォンを受け取る。
コンセントから伸びる充電器の端子を差し込むと、ポンと音がして充電中のランプが点灯した。


「大丈夫そうだな」
「良かった! あっそうだ、お風呂まだ入ってないや」




普段通りの琴馬、だよな。
昨日と何ら変わりない。




「先輩、変な質問かもしれないんですけど」
「ん?」
「えっとそのぅ、お風呂って、先に入るものですよ、ね……?」
「……ん?」




先に?

何の?




「で、ですからその! あの……このままだと汗とかかいてるから恥ずかしい、し……」

もじもじ。
琴馬が唇を指でぐにぐに弄びながら目を逸らす。






こいつは何を言ってるんだ、と一瞬考えたのは仕方の無いことだと思う。


何しろこいつは純情で無垢だと、俺が勝手に決め込んでいたわけで。
経験がないのは聞いたが、だからと言って知識がないことにはならないというのをすっかり失念していたのだ。



もしかしなくても、「このあと」のことを言ってるんじゃないかと思い至るまで少しの間、俺は固まっていた。





そんな俺を見て琴馬は何を思ったのか、顔を真っ赤にして。

まあおそらく、私ってば早とちりしちゃったんだ、とかそんなところだろうが……


「ななななんでもありませんっ! 私帰ります!」


スマートフォンを置きっぱなしにしていることも忘れて、俺の横をすり抜けて帰ろうとする。


……最初に会った時のように。


だから俺も、あの時と同じように。
琴馬の腕を掴んで、くるりと引き戻して。





「……帰るなよ」


あの時と違うのは

俺が、琴馬を抱きしめていること。



俺の腕の中で琴馬はもぞもぞと可愛らしい抵抗をしているが、腕を解いてはやらない。


「夢であってたまるか、なんて言っておきながら……これは夢なんじゃないか、朝起きたら上の部屋は空っぽで、お前も居ないんじゃないか、なんて思ってるんだよ」


ここまで自分に都合がいいと、さすがにそう思うのも無理はないだろ?


「えっ……せ、先輩が?」


琴馬が抵抗をやめて、目を真ん丸にして見上げてくる。
よほど意外だったらしい。


「だから、帰るなよ。もう無理だと思ったら言ってくれていい。なあ、琴馬」


その時は何としてでも歯止めを効かせてやるから。
だから、どうか。


「……お前に、触れさせてくれ」