「それで、どうだった」
男は木の根に腰掛けて俯き、顔を上げることもせずに問うた。
腰まである長く白い髪がその顔を覆い隠し、表情を窺い知ることは出来ないが、その声は少しの期待を含んでいた。
年の頃は四十には届かないといったところか。
髪と同じ色の着物をだらしなく着て、いかにもものぐさ、といった様相だった。
問われた方は片膝を地へつけ、恭しく頭を垂れたまま短くはいと答える。こざっぱりとした洋服姿の若い男であった。
「何がしかの力はあるかと。本人には自覚がないようですが」
「ほほぉ」
男が顔を、跪く男に向けた。
整えもせず伸ばし放題の長い前髪を片手で面倒くさそうにかきあげ、はだけた白い着物の襟を直すと少しばかり生気の宿った瞳で空を見やる。
そこは、暗い場所だった。
闇で塗りつぶされたような空間に、満開に花を咲かせた桜の木だけがぽつんと立っていた。
風もなく、何の音もしない。
暑くもなく、寒くもない場所だった。
その真っ暗な闇に白い影がぼんやりと現れ、形を成していくのを男は楽しそうに見ている。
「閏(うるう)が戻ったようだぞ」
「そのようです」
跪いていた男も立ち上がり空へと目を向ける。
髪は短く整え、木の根に座った男とは違い身だしなみもしっかりとしていた。
体格はいいが、いわゆる筋肉自慢という感じではなく必要なところに必要な分だけの筋肉がついた、無駄のない肉体。
服を脱がねば中肉中背と言って差し支えのない容姿であった。
ふぅわりと、白い影が立ち上がった男の隣へと降り立つ。
白い布を頭から被ったそれは、ぱさりと頭巾の部分を肩へと下ろした。
現れたのは漆黒の髪、浮き立つほど白い肌の美女。
平安時代の絵巻物にでも出てきそうな、姫君の様な髪型。
真ん中分けされた前髪のすぐ上には ──── 1本の小さな角が生えていた。
「主上」
女は涼し気な声で、短くそう呟き
先ほど、隣の男がそうしたように恭しく片膝を地につけ跪いた。
が、男は不満そうに頭をかく。
「主上はやめろと言ってるだろうが。こんな所で燻るわしの何が尊いものか」
「ですが主上は主上にございます」
「やれやれ、お前も頑固だな。みな頑固だ。揃って主上主上と……まあいい、お前が遅れるなど珍しいことだ、何かあったのだろう?」
男はいよいよ、すっくと立ち上がり、女の方へ歩み寄った。
女は小さく頷くと、優雅に立ち上がりひとつ息を吐く。
「刀自に面差しが似た人物に出会い、詳細を確かめようと接触したのですが……邪魔が入りました」
「なにっ……」
にわかに男の顔色が変わる。
隣に立つ男も、ぴくりと眉を上げた。
「本当か、閏」
「はい、主上。ですが当然、刀自ご本人ではなくあくまでも似ているだけでございましたので……」
「主上」
隣に立つ男が、主に向き直り跪く。
「その者に心当たりがございます。ご命令あらば私が探りを入れても宜しゅうございますが、如何なさいますか」
「いや……今はまだいい。よもや澪ではあるまいとは思うが……お前たちももう長く会ってはいないからはっきりせんだろうしな。澪ならば下手に手を出すと面倒なことになる」
「承知仕りました」
「やつめ、足掻こうというのか……わしの呪いに抗おうと? くっくっ……それならそれで面白いというもの。せいぜい頑張って貰おうではないか、なあ司(つかさ)よ」
至極楽しそうに笑いだした主に、司と呼ばれた男は諦観の表情を浮かべた。
この主ときたら、どんな事でも楽しんでしまうのだから。
「ここ」にいる事さえ、本人にしてみれば大して辛いことでもないのだ。
こうして自分や閏を使役し、外の情報は仕入れられる。
「しかし主上、万が一……邪魔をした者がこちらに害をなすようであれば……」
「捨て置け。まぁ火の粉を払う分には止めはせんがな、わしがここにいる間に面倒事を増やしたくないのも事実よ」
「はっ」
「それとな閏」
男が女性に向かって手を伸ばし、額の上の角をゆるっと一撫でした。
女性 ──── 閏がはいと答えると、男はうんと頷いて
「そろそろ、傀(かい)と綺(あや)を起こしてやってくれんか」
「主上! それでは……!」
女性が嬉しそうに声を上げると男はにやりと笑みを浮かべた。
「そろそろだからな。もう十分に動かせる」
「かしこまりました、直ちに」
「主上、お慶び申し上げます」
司も能面のようだった顔に少し笑みを浮かべ深く頭を下げる。
それを見た男は何故かうんざりしたような表情を浮かべ、やおら桜の木の下へ戻ると腰を下ろした。
「しかし、お前らもう少し砕けたしゃべり方は出来んのか。前々から言ってるだろう、そういうのは時代遅れだぞ。わしを見ろわしを」
「主上は流行りに感化されすぎかと」
「やかましい。あーあ起こす順番間違えたかなー。口うるさいカタブツと礼儀正しいお嬢とでは、わしのウィットに富んだジョークも通じないわお小言は言われるわで、全然楽しくないぞ」
「これでも一応、普段は普通を装っておりますので。やれぬと申し上げているわけではございませんが」
だったらやれ!
と男が仏頂面で言って背を向けたのを確認すると、司は閏と顔を見合わせて少し笑った。
「御意。では主上、またご報告に上がるまでゆっくりお休みを」
「わたくしも失礼いたしますわ、主上。お風邪など召されませんように」
来た時と同じように白いもやになっていく閏と、同じように白く輪郭をぼやかして行く司。
「くれぐれも気をつけよ。騒ぎは起こすなよ」
男は背を向けたまま、だが存外優しい声でそう言葉をかけた。
2人が消えた後、男は桜の木を見上げて眉を寄せる。
闇に白く浮かび上がる桜はまだその花びらを降らせることは無く、ただただ静かに芳香を放つばかり。
「逢いたいのう、千……」
男の呟きは、まとわりつくような闇に飲まれて消えた ──── 。