キスをしよう! 60

 激しい雨に打たれ、髪も服も数秒でびしょ濡れになり、肌に貼り付いてくる。


前を見ず、溢れる涙を拭うように走っていると、強く腕を引かれる。

ものすごい雨で、私を捉えた人の言葉は聞こえないが、それでいいのだ。


このシーンに言葉は必要ないのだから。




私は彼の手を振りほどくが、彼は私をきつく抱きしめる。
拳を握り、私は彼の胸を叩き続けた。



――― 最初は、涙なんて流せなかったけど。
今なら出来る。



カメラが真横に迫り、私達は絶妙のタイミングを見計らって、動いた。



私の手が葵の頬を打つ。
手加減など、一切しない。
打たれた葵は痛そうに顔をしかめたが、私の頬を両手で挟み、切なく、熱く、見つめてくる。


私は、泣いた。
声を出さずに、泣いた。

葵 ――― いえ、「彼」の顔が近づいてくる。




――― 唇が触れた瞬間、するりと力を失った「彼」の身体が地に崩れ落ち、水飛沫が跳ねた。

スローモーションのように見えたその光景が信じられずに目を見開く「私」。


倒れた「彼」を、真上から撮るカメラ。

「彼」のそばにしゃがみ込み、すがりついて慟哭する「私」 ―――――― 。





「カァァァットォォォ!!!」

部長の感極まった声で、私はフッと現実に戻って来た。
ワーッと歓声が上がり、スタッフに囲まれて。
体を起こした葵と目が合って。



「……最高の演技だったぜ、千歳」
差し出される葵の手に、ゆっくりと自分の手を重ねて ――― ようやく、終わったのだと理解する。


途端に、今度は流すつもりのない涙が溢れ出した。

部員 ――― スタッフに渡された花束に顔を埋めるようにして、私は声を上げて泣いた。


―――― ああ、私の中の「彼女」は、もうスクリーンの中へと昇華したんだわ。

……本当に、やり遂げたんだわ……。



泣き止むことのない私を慰め、冷やかし、或いはからかい、部員達が抱きついてきたところで部長が撤収の合図を出し、濡れ鼠の集団と化した私達は部室へと駆け出した ――― 。