強烈な香りだった。
しかしそれでいて、けして嫌味ではなく。
例えるならば、夜の闇に浮かぶ白磁の肌を持つ誇り高き女王。
その花は、溢れんばかりの生命力を惜しみなく放ち、目の前で枝を揺らしながら、月に向かって開いてゆく。
「凄いだろ?」
葵はベランダから星を見ながら、振り向かずに言った。
葵の部屋について、さて勉強をと思う暇もなく。
座ることすら許されず、強引に連れてこられたのはベランダだった。
ベランダに出た瞬間、さっきまでとは比べ物にならない程の強い芳香が鼻孔をくすぐる。
その香りの元は、探すまでもなかった。
ベランダに鎮座していたのは、鉢から伸びる支柱にゆるやかに茎を巻き付かせ、月に向かって顔を持ち上げるようにした大輪の花の蕾。
私と身長が変わらないほどあるそれを、葵は『月下美人』と呼んだ。
何でも、夏から秋にかけて、一夜だけ花を咲かせ、翌朝には枯れてしまうという珍しい花らしい。
思わず開きかける蕾に顔を寄せれば、あまりの芳香に噎せてしまって。
葵には笑われたけれど。
「親戚に貰ったんだよ。もうじき咲くだろうからってさ」
話している間にも、花はゆるやかに白い花弁を開いて行く。
それにつれて芳香も強くなり、私はまるで酔ったかのように、そっと瞼を閉じた。
「今日の夕方に蕾が開きかけたから、すぐに呼んでやろうと思ったんだけどな。お前確か今日は会議があるとか言ってたから」
「そうだったの……」
早くに開き始めた蕾が、完全に開いたようだった。
睡蓮に似たその白い花を、私は食い入るように見つめる。
「不思議ね。一夜限りで枯れる儚い花なのに、そうは感じないの……強い花だと思うわ」
「並の強さじゃねえよ、たった一晩に未来をかけて咲くんだ」
そうか、受粉しなければ次の花は咲かせられない。
なんて花だろう。
「そうね……まるで、夜を支配する女王みたいな花」
私の呟きに、葵が驚いたように振り返った。
「なあに? 私、なにかおかしなこと言った?」
「いや。知ってるのかと思った。こいつは、A Queen of the Nightって呼ばれることもあるんだ」
「上手く言ったものね。相応しい名前じゃない」
穏やかに、花の香りに包まれて会話をしていたのだが……私はふと疑問に思ったことを口にした。
「ねえ、わぴこや北田くんは呼ばなかったの?」
すると葵は目を丸くして、それから視線を泳がせた。
何かを考えるような仕草を見せて、私を見つめて来る。
月の明かりに照らされる葵は幻想的な美しさを見せていて。
花を見るためにサングラスも外していたから、彼の視線を遮るものもなく。
胸が高鳴るのを感じる。
何故?
葵と二人きりになることなんて、今までにも何度もあったはずなのに。
ああ、でも、こんなに真剣な表情で見つめられたことは無かったかしら……
「考えてみたら、こういう場面にはこの花は相応しくなかったな」
苦笑した葵が困ったように頭をかきながら呟く。
「どういう意味?」
「この花の花言葉はな、はかない美、儚い恋、繊細、快楽、艶やかな美人……なんだよ」
花言葉は分かったけど……それがなぜ相応しくないのかが理解できない。
そもそも、私の質問にも答えていないように思う。
「秀一とわぴこを呼ばなかったのは、いてもらっちゃ困るからだ。つまり二人きりでなきゃいけない状況ってこと」
「私と二人きりでなきゃいけない状況……?」
「そ。この花が咲いたら、俺はあることをしようと一大決心してたからな。それを果たす場面には千歳、お前だけがいたらいいんだ」
一体、何が言いたいの? 葵は……
「まだわかんねーかなぁ。ほんっと、じきに勘違いして暴走するくせにこういう所は鈍いままだよな~お前は」
「どーゆー意味よっ!」
葵は私に喧嘩を売りたかった。
そういうことよね。ええ受けて立ちますとも!
憤慨して葵に掴みかかろうとした私の腕が、あっという間に絡め取られて。
月下美人の香りと、葵の使うコロンの香りが混じりあって、それは酷く官能的な媚薬になった。
やだ、頭がくらくらする。
こんな近くに、葵の、顔が ――― 。
葵に抱きしめられている。
下を向いてしまおうと思ったのに、葵の手が私の顎を掴んで逃がさない。
焦点が合わなくなる位に近いところで、葵が私をまっすぐに見つめている。
目を反らせばその間に葵の顔がもっと近づいてくるから、反らすこともできない。
密着した身体は、花の香りと葵の香り……夜の香りと呼んでもいいそれに絡み付かれたのか、微動だにしなくて。
私を見つめる葵の瞳が小さく揺れた。
唇が、ゆっくり、ゆっくり動く ――― 。
ス
キ
ダ
確かにそう言った。
「……お前は?」
耳元で囁かれた時。
一層強くなった芳香を胸いっぱいに吸い込んだ私は、そろりと腕を持ち上げて、葵の背中に回して…………。
――― 私は、夜に、堕ちた。
(了)