(仮)17

どれくらいの間、考え込んでいただろう。
私は自分の部屋の前で立ち尽くしていた。


ひやりとした夜の空気に身を震わせて気付いた、パジャマを借りたままだ。
服も置いてきてしまったし。
とは言え、今更忘れ物しちゃいましたと顔を出すのも気まずいし ──── と。
鍵を回し、扉を開いた瞬間だった。



部屋の中から、氷のように冷たい空気が流れ出したのだ。



一瞬、窓でも開けっ放しにしていたのかと思ったけど、そんなはずはない。一度も窓には近付いていないのだから。



そう、これは物理的な「寒さ」じゃない。



だって、体が先に気付いてる。

動かせない ──── 「居る」のだ。
部屋の奥から、視線を感じる。見られているんだ。




息を吸い込むが、声は出ない。



──── 先輩。助けて、先輩。

真っ先に浮かんだのは、おばあちゃんではなく先輩だった。

ああ、そうなんだ。
今、私が一番頼りにしているのは……先輩、なんだ。



先輩。白神先輩。
私の心に、染み入るように。
先輩への想いがすとんと胸に収まって。それだけで、不思議といつもなら出ないような「勇気」が湧いてきて。




ズ、ズズ、と引きずるようにして足を動かしてみた。



大丈夫。
視線は感じるけど、昼と違って殺気は感じない。
まだ、大丈夫。

だから ──── 動け、私の身体…………動け……動け、動け、


お願いだから動いて!!!




私は先輩のところへ………………行くんだ!!!





パシンッ

耳の奥で小さな音がしたかと思うと、弾かれたように身体が軽くなる。
どうして、とかそんな事は考えず、私は走った。


転がるようにして階段を降りる。後ろを振り返る余裕なんてない。
もう少し、あと少しで307号室



──── なのに。


「あなた……何者です?」



伸ばした手は、先輩の部屋まであと1メートルもない所で止まった。
耳元、涼し気な女性の声が言った瞬間に。
振り返れない、冷たい空気を感じる……それに、少しの敵意も。

だから、動けない。

あと、少しなのに。
この扉の向こうに先輩がいるのに。



「……っん、ぱ……い……っ」


ようやく出せた声。小さな、小さな声。
だけどそれはあまりに小さくて。
こんなんじゃ届かない、これでは ──── もう、ダメなの……?



私は絶望感に目を閉じた。
その瞬間

伸ばしていた手を強く引かれ、私の身体はつんのめるように前へ傾ぎ ────


「失せろ」


目の前には、見覚えのあるTシャツ。それに、ボディーソープの香り。
私を引き寄せたのは……先輩?


「こいつに手を出すんじゃねぇ。 ──── 失せろ」


さらに強く、抱き込まれる。守るようにしっかりと。
一瞬の後、背後の冷たい空気はフッと霧散した。






「大丈夫か?」

気遣うような声にゆっくりと顔を上げると、声そのままの、先輩の気遣わしげな顔。
先輩が、助けて、くれた。
気付いてくれた。

「ふ……ぇっ……」

大丈夫です、先輩のおかげで何ともありません。ありがとうございます、そう言おうと口を開くのに。
出てきたのは、情けない声。
そして目の前が、先輩の顔が、涙で滲む。


先輩は私の背中をポンポンと軽く叩くと、そのまま部屋へと誘導し、ドアに鍵をかけた。


「怖かったな。気付くのが遅れて、悪い」


とても優しい声で、そう言われ。
ふわりと包むように抱きしめられ、髪を撫でられて。
私は、堰を切ったように溢れ出した感情に耐えきれず……ついに声を上げて泣き出した ──── 。







おばあちゃんには、もう数え切れないほど助けてもらった。
私は足でまといでしかなかったから。
それでも仕事に同行させられたのは霊気と言うものに慣れるため。
命が危なかったことも、何度かあった。
ギリギリの所でおばあちゃんに助けられて放心したことも。


でも。


こんな風に泣いてしまったことはなかった。
怖かったとは思っても、わあわあと声を上げて泣くようなことは、一度も。

だって、私は跡取りではないけれど、いずれは祓い屋として生きていくことになるから。
兄を助け、住職として働く兄を陰日向で支えていくものだと思っているから。

そんな私が、もう嫌だ怖いよと声を上げて泣くわけにはいかなかったし、おばあちゃんの実力を知っていたから絶対に大丈夫だと言い聞かせることもできた。





刷り込み……のようだと思う。

先輩を見た瞬間から、私の心の中には絶対的な存在として先輩がいて。
親鳥にくっついて歩く雛のように、先輩の傍にいないと安心できなくなってしまったんじゃないかと。

それほどまでに、この人の胸に抱かれていると安心してしまうのだ。


先輩の大きな手で髪を撫でられると落ち着く。
優しい香りをかぐと安心する。
今日初めて会ったばかりのはずなのに、ずっと前からこうしたかったんだと錯覚してしまうほどに、安らぐ。


「少しは落ち着いたか?」


そろりと先輩が離れる。
私は頷いたが、動くことはしなかった。