Daybreak,lovers!2

地下鉄の駅を出て、スーパーで惣菜でも買って帰ろうかと店に足を踏み入れた瞬間だった。
ポケットに入れてある携帯電話がブルブルと振動していることに気づいたのは。

葵はいつから鳴ってたんだ、と慌ててポケットに手を突っ込む。
バイト先からだろうか。時刻はもう22時前だ。こんな時間に電話がかかってくること自体が珍しかった。


「……お?」

ディスプレイに表示されている名前を見て、思わず葵は足を止める。
そのまま通話ボタンを押しながら回れ右をして店の外へ。

「なんやの、危ないなぁ」

葵に続いて後ろから入ってこようとしていたおばさんが、ボソリと呟いたのが聞こえたが葵はあえて聞こえないフリをした。




「よう、珍しいなセンセイ。何かあったのか?」

冗談めかしてそう言えば、受話器の向こうで朗らかに笑う声が聞こえた。

「何か用がないと電話しちゃいけなかったかい?親友がちゃんとご飯を食べられてるか心配してるつもりなんだけど」

「へっ、お前はオカンかよ秀一!」

中学時代の同級生であり、幼馴染でもある北田秀一からだった。
秀一は酷いなぁ、せめてお父さんと言ってよなどと笑っている。

「で、どーしたよ。ほんとに俺の食生活を心配してかけてきたわけじゃねぇんだろ?」

ひととおり言葉のじゃれあいをしたところで本題を促す。
早くしないとスーパーはまもなく閉店だ。もう蛍の光が聞こえている。

「騒がしいね。まだ外かい?あとからかけ直そうか」

「ん、まあ、今帰ってきてスーパーに寄ったとこだったんだけど。いいよ別に、買いもんしながらでも話せるし」

葵はそう言うと再び店内に入り、カートにカゴを乗せて歩き出す。
どうせ買うものは惣菜と、切らしかけていた牛乳くらいのものだ。
じっくり見て回る必要も、時間もない。

秀一は少し迷ったようだったが、それじゃあと話し出した。

「耳が痛い話で申し訳ないんだけどね。さすがにウチの奥さんがたいそうお怒りになってるし……」

そう切り出されて、葵は瞬間ぐっと眉間に皺を寄せた。

「わぴこが、か……」

「そう、葵も知ってるだろ?うちの奥さんが本気で怒るとどれほど恐ろしいか……」

「う……まあその。なんだ。えーっと、そこをまた何とか秀一様のお力でだな……」

「葵」


きっぱりと。
名前を呼ばれただけなのに、声色だけで無理だと断言されているとわかってしまうのは、やはり長い付き合いだからだろうか。

「葵の人生だから、荷物を引き上げて戻ってこいなんてことは言わないよ。ただ、年末年始くらいは戻ってきてくれてもいいんじゃないか?どうしてそこまで頑なに戻りたがらないのかは聞かないけど……もう何年になる?大学がそっちだからってここを出て行って。今勤めてるバイト先が辞めないでくれって泣いて頼むからもう少し残るって言い出して。成人式で戻って以来だから、もう10年にもなるんだよ?わかってる?」

「……ああ」

半額、30%引きなどと書いてある惣菜を適当にカゴに放り込みながら、葵は苦い表情で答える。
言われずとも、毎年クリスマスから年始を迎える頃には嫌でも故郷を思い出すのだ。
だが、帰れない理由が自分にはある、と葵は心の中で呟く。

時間が経ってしまったからこそ、今更どうにもならない理由が。


「……帰っておいで。万が一交通費がないっていうなら僕が出すよ。チケットを送ってもいい」

「けど、よ」

「このまま見ない振りでズルズルと二十代を終える気かい?……彼女、まだ独りだよ」

ピタリ。
葵の手が止まる。
それは、葵が帰れなかった原因ともいえる人。
いや、彼女に罪はない。むしろ全面的に自分が悪いと葵は知ってはいたが。



「その、……元気に、してんのか?」

「さあね」

秀一は感情のこもらない声であっさりとそう言った。
そして半ば諦めたように続ける。

「うちの病院にはここしばらくかかってないよ。わぴこの話だとまあ大病を抱えてる風ではないらしい。だけど元気かと聞かれたら僕には答えられないな。何しろ半年以上も顔を見ていないんだからね」


葵は痒い部分に手が届かないようなもどかしさを感じて唸る。
確かに元気にしているのかと訊いたのは自分だが、本当に知りたかったのは、今、秀一が言ったようなことではないのだと、おぼろげには理解しているのだ。

だが「そういうことじゃない」と秀一を責めることは出来なかった。
あくまで彼は葵の質問にちゃんと答えてくれたのだから。

もちろん、秀一が葵の質問の意図を理解していなかったのではない。
理解した上で「電話で近況を聞いて済ませようなんて、甘いよ」という意思を込めて返事をしたのだ。
それがわかるだけに、これ以上は聞くことは出来ないのだと理解した。
教えてあげない。端的に言えば、そういうこと。


「つまり、俺自身の目で確かめろってーこったな」

「さすがは親友だね。言わなくてもわかってくれるなんて、嬉しいよ」

「よく言うぜ……はぁ。あ、ちょっとこのまま待っててくれ、会計しちまうから」

そう言うと携帯を通話中のまま一旦ポケットに押し込み、手早く財布から千円札を抜き、レジのおばさんに差し出した。
いつもなら「おかえり、今日は遅番やったの?」などと声をかけてくれる馴染みのおばさんだったが葵が電話中なのを見て、黙って微笑みながら会計をすませてくれる。
つり銭を財布に戻している間に袋詰めまでしてくれたようだ。

「ありがと、おばちゃん」

「あいよ」

手短に挨拶を済ませると、買い物袋を手に大急ぎで通りへ出る。




「わりぃ、待たせたな」

「大丈夫だよ。ごめんね忙しい時に」

「何言ってんだかな。お前の方がよっぽど忙しいだろ副院長センセイ?」

「緊急の呼び出しでもない限りは大丈夫だよ。父さんもまだまだ現役だし、この時間になればゆっくりできるからね」


秀一が北田医院で医師として働き出して6年。
秀一の父はまだしっかり院長を勤めているので、彼は父の下で目下勉強中といったところだった。

「わぴこは?」

「ああ、今お風呂に入ってるよ。今日千歳さんと会ったらしいけど、どんな様子だったのかは相変わらず語りたがらないんだよね。まぁ……帰って来たときの顔を見れば大体は想像もつくけど」

「そか……あーえっと、あいつ何か仕事してたよな。なんだっけほら、花をどうこうするアレ」

「フラワーアレンジメントのことかい?」

「そう、それそれ。そっちの方はどうなんだ?なんか個展とか開いたりとかするもんなのか?」

「うーん、どうなんだろうね。僕もそういう方面はさっぱりだからよく分からないけど……もし個展を開くとかいう話が出たなら、わぴこが行かないわけがないから、きっとないんだろうね」

「それもそっか……」

「半年くらい前に胃腸炎でうちへ来た時は少し悩んでいる様子だったけど、仕事がうまく行ってないんですかって聞いたらそっちは大丈夫って言っていたし。悩み事の原因はいつものだから、とも」


いつもの。
そう聞いて葵の頭に浮かんだのは……

「おばさんか」

千歳の母親。
思えば彼女が中学生だった頃から何かれとトラブルを起こして引っ掻き回していたのは彼女の母親だった。

高校に入ってからも、頻度は減ったものの何度かとんでもない暴走に巻き込まれたことがある。
そしてしばらく考えて浮かぶ「悩み事の原因」が「やりそうなこと」は、今のところ1つしかなかった。



「明日、シフトを調整してみるよ」

葵はふっと声のトーンを落としてそう言った。
閑静な住宅街、人通りもなく静寂に満ちていたその場所で何故かとてつもない孤独を感じて。

毎年、苛まれてきた感情。
郷愁であったり、後悔であったり、苛立ちであったり、不安であったりするもの。
それは自分がきっと「在るべき場所」にいないからこそ感じるものなのだと知りつつ、ずっと見ないようにしてきたもの。

「葵、それじゃ……」

「おそらく見合いを迫られてんだろうよ。あのおばさんがこのまま千歳を独身でいさせるとは思えねえしな」

「そう……だろうね」

「だったらまた俺たちでその馬鹿な計画をブチ壊してやらないと、だろ?」


今までにも何度かあったことだ。
高校時代は年中行事と言ってもいいほど。
そのたびに4人で力を合わせて乗り切ってきた。

彼女が職に就いてからは聞かなかった話だが、もう三十路だというのに彼女はまだ独りだという。
あの母親が放っておくわけがないと確信していた。


本来ならば、それは彼女の事情であって。
助けてくれと言われない限り、勝手に動いていいものではないのだと思う。
成人しているのだから、結婚を考えることは何もおかしくはないのだ。
もはや学生でもないし、結婚を考えるには早すぎることはない年齢どころか場合によっては遅すぎるとも言える年齢。

だが秀一は「悩み事」と言った。
彼女が胃腸炎で病院を訪れたのだとも。
だとすれば歓迎しているわけではなさそうだ。

「こちらから帰ってこいと声をかけておいてこんなことを言うのは心苦しいんだけど」

秀一が少し言いにくそうに前置きをして、小さく深呼吸するのが聞こえた。
葵には何となくだが親友が次に言おうとしていることがわかる気がする。
短くはない付き合いだし、わぴこを除けば葵の最大の理解者であると言える男だ。
そして葵だって、わぴこを除けば秀一の最大の理解者であるのではないかと自負している。

だから、彼が切り出す前に笑った。

「わかってるよ。生半可な気持ちで帰るつもりはねぇ。どうやらもう逃げられないみたいだしな……たく、かっこ悪ぃぜ。お前らにここまでさせないと帰る勇気も出ないとはな」

バイト先の店長には、もう戻ってこられなくなるかもしれないと話をしておこう。
葵は星の見えない空を見上げながら、そう決めた。




潮時なのだ。
追いすがる時間から逃げているつもりで。
全てを先送りにして。
解決しないのをいいことに、流れに身をまかせたつもりで。
本当は全然、何にも、納得などしていなかったくせに。
怖いことから目を背けて、諦めたつもりになって。

「ああ、ほんと……かっこ悪ぃな、俺」

受話器の向こうで秀一は苦笑いしているのだろう。
肯定も否定もしないけれど、昔から変わらないあの「仕方ないなぁ」という顔で。