モノクロームの世界(加筆修正版)

あの頃に戻りたい、と思うことがある。

この頃は毎日、理事長室で楽しかった頃に思いをはせる。

単なる逃避だとわかっているのだけれど ――― 。



コン、コンと控えめなノックとともに重い理事長室の扉が開いた。

「失礼します。理事長、今日の分の」

「もう終わってます。そこに置いてあるから持って行って頂戴」


書類を取りに来た職員に反論する暇すら与えず、暗に「早く出て行ってくれ」と伝える。

職員は苦笑して書類を手に取ると黙って理事長室を出て行った。





高校を卒業して2年。
大学へ行きながら、理事長としての責務を果たす日々。
高校生のころはしょっちゅう会っていたわぴこ達とも会う時間が取れなくなっていた。


……少し、疲れているのかしらね。


北田くんは医大へ進学、わぴこは短大生。


葵は ―――






モノクロームの世界』






外の暗さに、ずいぶん長い時間考えこんでいたのだと気付いた。

いけない、明日も早いのだからそろそろ家に帰らなきゃ ――― と。
机を片付け、立ち上がった時だった。



ブブブブブ、と机の上で携帯が震えだす。
慌てて手に取ると、ディスプレイには「わぴこ」の文字。


「もしもし?」
「ちーちゃん、ハガキついた?」


……この子ったら、挨拶くらいしなさいと何度も言ってるのに。
苦笑しながらも私は首をかしげた。

「ごめんなさい、私まだ学校なのよ。家の郵便受けは今朝見たけど、何も来ていなかったわね」

「えー、学校の方に送ったんだよ? ちーちゃん、そっちに居ることの方が多いんだもん」

「あら、そうなの? ちょっと待って、そう言えば届いてた郵便を確認してなかったわ」

言いながら辺りを見回すとソファの上に紐で束ねられた郵便物がある。

「これかしら? ちょっと待っててねわぴこ」

「うん!」

断りを入れておいて、携帯をテーブルに置き、郵便物をザッと見る。

ハガキ、ハガキ……


「ああ、あった。これね…………同窓会!?」

そのハガキには『同窓会のお知らせ』と書いてあった。


「見た? ちーちゃん」

「え、ええ……でもこれ、どうしたの急に?」

「秀ちゃんとはけっこう前から話してたんだよ。ちーちゃん連絡がつかない事が多かったから、勝手に話を進めちゃったけど」

「そうなの……みんな集まれるのかしら? 朱子ちゃんは東京に出て行っちゃったし、マイケルは世界一周がどうとか言ってなかった?」


まあ、どれもわぴこから聞いた話なのだが。

「違うよ、ちーちゃん。それは゛生徒会゛の同窓会の案内!」

「えっ……」



生徒会。

私と、わぴこと、北田くんと、葵。

「でも、葵は」


葵は……





「……葵ちゃんも来るよ」

わぴこの声のトーンが少し落ちた。

「……そう」

私もそれ以上は聞かず、少し日時についての打ち合わせをして電話を切った。




「葵……久し振りにあなたに会えるのね……」

ソファに深く沈みこみ、私は大きく息をついて ―――

「きゃ!?」

手に持ったままの携帯のバイブに驚いてソファからずり落ちる。


「千歳さん、ハガキはつきましたか?」

「……北田くん、最近わぴこに似て来たんじゃない?」


2人揃って同じ内容の電話なんて。












一週間後。

同窓会は、理事長室で開かれることになっていた。
時間通りに、理事長室のドアがノックされる。



「ちーちゃん久しぶりー!! 会いたかったよ~」

抱きついてくるわぴこを笑顔で受け止めて。
後に続いて入って来た北田くんに微笑んで見せる。

「久しぶりね、北田くん。元気そうで良かったわ」

「千歳さんも……思ったより元気そうですね。でも少し疲れてるように見えますけど、ちゃんと寝てますか?」

「ハイ先生、睡眠はちゃんととってます」

少しおどけて見せると、未来のお医者さんはほがらかに笑った。




「わあ! ケーキがあるー!! ちーちゃんが焼いたの?」

テーブルの方へ走りながらわぴこが目をキラキラさせる。
私はそうよ、と答えながら後に続いた。

「ちーちゃんお料理上手になったもんねえ」

「頑張ってるからね、わぴこもたまに味見してくれるし」

「うん!! この頃の料理はすっごくすっごく美味しいよっ」

昔は……それはもう、壊滅的だった私の料理。
今では趣味になるほど、暇さえあれば何か作っている。
好きこそものの上手なれとは言ったもので、今ではもう昔の面影を良い意味で欠片も残さない、素敵な料理が作れている。




ソファに腰をおろしながら、3人で笑い合う。

猫印の紅茶もちゃんと用意してある。

4人分。


私と、わぴこと、北田くんと、葵のぶん。





紅茶を一口。
そして、それぞれが何かを決意するかのように、息を吐く。


「……もうじき、2年ですね」
わずかに目を伏せて、北田くんがポツリと言った。


「……もう2年なんだね」
わぴこもテーブルの上のケーキを見つめて、言う。


「まだ、2年……よ」
私はゆるやかに首を振って答えた。

二人の瞳が一瞬、大きく見開かれて
少し、潤んだ。



「さあ、満を持して葵の登場……でしょ? わぴこ」

「ちーちゃん……」


大丈夫? とわぴこが目で問いかけてきた。
私は微笑んで頷く。


わぴこは小さく頷いて大きなバッグを引き寄せると、そっとそれを開き、写真を取り出して……


「葵ちゃん、久しぶりでしょ? ここ」

――― 声が、震えていた。



変わらない、葵の不敵な笑み。
写真 ――― 遺影の葵は、あの頃のまま ――― 。







「千歳さん、まだ自分を責めているんでしょう?」

北田くんが睨むように私を見つめてくるが、私は首を振る。

「葵が死んだのは確かに私のせいだわ。だけど、今はもう自分を責めてはいないの」





2年前。
卒業間際の寒い日。
車にひかれそうになった私をかばって、葵は死んだ。
よくある話、そう……よくある悲劇。
ドラマや漫画、小説に舞台。
使い古された、けれど覆せない悲しい恋の設定。

それが、現実になるなんて
きっと誰もが思わなかった。



「そうは見えませんよ、とても」

食い下がる北田くんをチラリと見て、私は笑う。


「本当よ。ただ、寂しいだけなの。葵の声を聞けない事が」


し、ん……。


誰も口を開けず。
ただ、葵の遺影を見つめていた。







結局、同窓会と言うよりは法事のようになってしまったが、3人であの頃の事をたくさん話した。
話に夢中であまりに遅くなりすぎ、2人は終電がなくなってしまって私の家に泊まることになったのだが。






「ふわぁあ、いっぱいお話できて楽しかったよちーちゃん!」

「私もよ、中々ゆっくり話せる機会もなかったものね」

「うん、ちーちゃん忙しそうだからお手伝いしたいけど、理事長のお仕事はさすがにお手伝いできなくて……ごめんね」

「やぁね、そんなの気にしなくていいのよ。こうして時々ストレス発散に付き合ってくれるだけですっごく助かってるんだから! ありがとう、わぴこ」

「確かに理事長職についてはお手伝い出来ませんが、簡単な事務作業とかなら僕らでも出来ますから。本当に、無理はしないで……いつでも呼んで下さいね。紅茶一杯でバリバリ働きますよ?」

「うちの教職員よりよっぽど頼りになって、しかも安上がりねぇ……ふふっ。ありがとう。あまりにもうちのが使えないって時は紅茶一杯で馬車馬のように働いてもらうことにするわね!」

「あれ……早まったかな? ケーキぐらいは付けておくべきでしたね」

「ふふーん、もう遅いわよ~だ。……ふたりとも、今日は素敵な同窓会をありがとう。明日はお休みみたいだし、ゆっくり寝てね。私は……昼頃にはダイニングに居ると思うから」

「わかりました。では、お休みなさい……また明日」

「おやすみちーちゃん!」

「おやすみなさい」




来客用の寝室へ2人を案内し、自室へ戻った私は思いきりベッドに倒れ込んだ。




―――葵が死んだのは確かに私のせいだわ。だけど、今はもう自分を責めてはいないの―――


北田くんにはああ言ったけど。
今でも私は自分を責めているのかもしれない。


あの日、もう5分早く生徒会室を出ていれば。
私が車道に近いところを歩いていなければ。
私にもっと注意力があったなら。


たらればばかりで、こうだったら、ああすれば、浮かんでは消える、数々の「あったかもしれない可能性」。
だけど今、葵は居ない。
それが、たったひとつの事実。

遺された者に後悔を与えない死なんて、どれほどあるのだろう。
きっとほとんどの人が、ああしていれば……何か出来ることがあったはずなのに……そう思うのだろう。
わたし達のように。

北田くんも、わぴこも。
私が見ても重症だと思うほど落ち込んでいた。
私は多分、最初は実感が沸かなくて。
葵がもう、どこにも居ないのだと……会えないのだと実感する頃には、新入生たちを受け入れる準備やら何やらで忙殺されて。


心を落ち着かせるチャンスを逃したまま、綱渡りのように危うい状態で、今日まで来ているんだわ。

だから

もう2年、と。
未だに、言えない。




「葵……あなたに好きだと言えなかったわ」
ベッドから起き上がる気力がなくて、沈み込んだままポツリと呟く。

「ねえ、どうして夢にすら出てきてくれないの? どんな形でも葵に逢えるなら、私は……」
とめどなく涙があふれて来る。

いつも、眠る前に葵へ語りかけていた。
こうしようと決めているわけでもなく、ただ。
落ち着いて、頭に浮かぶのが彼のことだという、それだけの事。
声が届かないと知りながら、それでも溢れてしまいそうな悲しみを部屋に向かって吐き出すほかに術はなくて。

だから今日も、呪いの言葉を吐きながら、泣きながら眠りに落ちる―――はず、だった。




「日々が虚しいの。葵のいない日常はまるでモノクロームの世界なの。あなたと居られない世界は……私に痛みしか与えないわ」


「そんな事言ってると、かっ攫っちまうぞ」



呟き終えた瞬間、頭上から降ってきた声は ―――


「よう、シケたツラしてんなよ千歳。ひでぇ顔だぜ」

「…………あお、い?」







葵が、いた。
顔を上げた私の目の前に。
少し、困ったような顔をして。





「……ずっとお前のそばにいたんだ」

「葵……」

「あの日からずっと、お前を見守ってたんだ」

「そばに ――― いてくれたのね……」

「お前がいつか立ち直ったら、消えるつもりでいたんだ。けど……お前、ダメじゃねえか」

「だって……」

「この2年間、俺の名前を呼ばなかった日が1日もないって、知ってたか?」



涙が、こぼれる。
葵が困ったように、でも優しく微笑んでくれたから。

「なあ、俺はお前が俺のことを忘れて誰かと幸せになる事が一番いいと思ってた。けど、それは違うんだな」

「葵のいない世界に私の幸せなんてないわ」

「……は……っ、言い切るか、お前」



葵は笑う。
私も笑う。



「いつから薬をやめたのか、秀一が知ったら怒るだろうな」

「北田くんは知ってるわ、多分ね」

「……かもな」

「わぴこも、きっと」

「……かもな」





葵の手がゆっくりと私に伸びて来る。

私は、迷うことなくその手を取った。




「ったく……仕方ねーなぁ、お前は。仕方ねーから……連れてってやるよ」

ニヤッと笑う葵の胸に ――― 飛び込んだ。







あたたかい、幸せ。

もう二度と離れなくてすむ。

もう、ずっと、2人で

2人で、いられる、のね。




「愛してる、千歳」
「愛してるわ、葵」
















寒い日だった。
とても寒い日の朝。


彼女は、自室のベッドにうつ伏せに沈んだまま、静かに眠っていた。



とても幸せそうに微笑んだまま、二度と覚める事のない眠りについた千歳さんの姿に、僕らは黙って泣いた。



二十歳という年齢で、末期癌に冒されていた彼女。

彼女が薬をやめていた事も、僕らは知っていた。

けれど全てが運命のような気がして、死に急ぐ彼女を止められなかった。


「ちーちゃん……ちーちゃん……葵ちゃんと、幸せになってよぉ……」

彼女の亡骸にすがって泣くわぴこの肩にそっと手を置いて、僕は頷く。


「葵が迎えに来ていたのは間違いないよ、ごらん。こんなに嬉しそうな彼女の顔……2年前から一度も見ていない」

「秀ちゃ……っ」



わぴこを抱きしめ、天井を仰いだ。
胸の中で泣きじゃくる彼女に聞こえないように、そっと呟いた。



「僕らはまだ行かないよ、葵。お邪魔しちゃ……悪いだろ? だから、もうしばらく待っててくれ ――― 2人で」





窓の外に、白いものが舞い始めていた、寒い朝





(了)