秘密の放課後7

葵は無性に腹が立った。

現代文の授業なんて、何の役に立つってんだ?

こんな時、何て言えばいいんだ?

教えてくれよセンセイ。
良く分からない小説の抜粋を題材に主人公の気持ちなんか推測してないでさ。
こんな時は、こういう言葉を掛けましょう。そうすれば彼女を傷付けずに済みます。面子を保てます。角が立たないように中断できます。
…………そういうの、ねぇのか?


誰に懇願するでもなく、怒りすら通り越して自らに呆れ返る。


「……あの、あお」
「黙って」
「でも」
「黙っててくれ」
「葵……ねぇ」
「黙れよ、千歳」

温度のない声。
だめだ、これじゃあ……

「俺いま人生で一番、自分の頭ン中がわかんなくなってんだ」

あぁ。
今度は泣きそうな子供みたいな声になっちまったぞ。
そう思っても葵の声は段々と震えを伴って。

「それは、その……わからなくもない、けど」

「だったら頼む、黙っててくれ」

「黙っててあげたいのよ、私だって」



なら頼む。
口を、口をつぐんでてくれ。
頼むから。


「でもね……」

わかってんだよ。
俺だって。

葵は祈るような気持ちで、上目遣いに千歳を見上げた。
闇の中、はっきりとは見えないが千歳の困惑したような瞳が自らを見下ろしているのがわかる。


しかし、無情にも彼女は、現実を突き付けたのだった。




「そんなに手のひらばかりにキスされたらそのうち腫れちゃうわ……」

いささか、申し訳なさそうにではあったが。






さてはて、千歳の告白からかれこれ5分近くは経とうか。

葵は何故か、ひたすらに彼女の手のひらに口付け続けていた。


念願叶って両想い。
そんなことになろうものなら、きっと自分は飛び上がるほど喜んで彼女を抱きしめるのだろう。

そんな風に思っていた葵であったが、抱きしめるどころか片膝をついて王子様よろしく千歳の手のひらにキスをする、という暴挙に出たのだ。

……体が勝手に。



「うぐっ……ぅ」


彼は気付いていないようだが、これはある種の防御反応とも言えた。


抱きしめる、千歳の柔らかい体。
いい香り。
潤む瞳に、震える声。
服なんて邪魔なだけだ。
だったら脱がしてしまえば―――



そうなることは、分かりきっていたから。

いやいやいや、俺どんだけサカってんだよ!
野獣だよそれじゃ!

そうして、一瞬の、濃密で卑猥な妄想にツッコミを入れた葵が取ったのが、この行動だった。


王子様っぽくて紳士的であり、かつ彼女を抱きしめることも出来ない。
そして考えをまとめる時間も作れて合理的!
この上ない上策、と感じたのだ。


……そう感じた時点で彼はまともな判断力を既に失っていたという事が窺い知れるが。



一方千歳の方も、少なからず混乱していた。
主に原因は目の前のこの男が作っているのではあるが。


あまりの鈍感っぷりに思わずキレて勢いで告白してしまった所までは、もういい。
一度発してしまった言葉は飲み込めないのだから。

しかし、黙って跪かれて「ご機嫌麗しゅう姫君」とばかりに手のひらにキスをされ続けること5分。

まぁ、時計も見えないのでそれは彼女の主観でそれくらい、というものであったのだが。


ギャラリーがいたなら、彼らが発する言葉はこの一つを除いてないだろう。

―――長いよ!……と。



彼女は、葵が現在どれほど強大で恐ろしい敵と戦っているのかを知らないでいるのだ。

だから、この行為は是なのか否なのか。
推し量ってみようと考えて……出来なかった。


彼がふざけているとは思えない。

お断りならキスなどしないだろう。
ならこれは「俺も千歳のことが好きだ」という意思表示?
にしては、長過ぎる。
手のひらに口付けて、それから一言あるならばともかく。



「もうだめ、意味わかんない……」





「……ですよねー」


千歳が首を振りながらそう言えば。
葵が観念したように笑みを含んだ声で返した。

そして、ほんの少しだけ

彼女の手を取っている自分の手に力を込めて、……引いた。


「ひゃっ」

かくん。



千歳の膝はあっけなく折れて、バランスを崩したまま彼女の身体は葵の腕の中に収まった。


ハハッと小さく笑う声に、唐突な抱擁に、千歳は面食らって葵の顔を見上げる。

「やーっぱ無理だったみてーだわ」
「何が?」
「んー?」

明るい、しかし投げやりな色も含まれているような葵の声。

「好きな女がさ、キスしながら俺に告白してきてて」
「……えっ」
「しかも暗い、密室で2人きりでさ」
「う、うん……って葵、好きな女……て」
「そう。俺、お前のこと好きなんだよ」

あっさり。
あまりにあっさりそう言われて千歳は言葉を失った。

お弁当にウインナーが入っていて嬉しかった時みたいに、軽いノリで言われてしまって、頭が事実を理解しようとしない。

え、そんなサラッと言うところ?
いや嬉しいけど、なんかこう、重みがなくない?

突っ込もうとして、気づいた。

そう。
重みがないのだ。「その部分」に。

葵が言いたいのはそこではなく、彼が千歳を好きで、今2人は密室にいるという状況の、さらに先にある「何か」。


未だ雨は止まず、いやむしろ先程よりビョウビョウと吹き付ける風と相まって益々轟音を響かせている、そんな真っ只中。

静かな緊張感が、じわじわと忍び寄っていることを千歳は本能で感じ取る。




この先を聞いてはいけない。
聞いてしまえば、後戻りは出来なくなる。

私は答えを、持っていない。

そう心が告げるのに、千歳はただじっと葵の言葉を待っていた。





「俺、もしお前と両想いになれたら、ちゃんとデートに誘って、段階を踏んで付き合って行こうって思ってたんだぜ?」

―――やめて


「まずは手を繋いで」

―――聞いちゃだめ

「頬にキスして」

―――だめ、これ以上は

「んで、ムード満点のシチュエーションでファーストキスして」

―――その先を、言わないで

「お互い、いいかなって思ったら、ようやくお前に触れようって思ってた」

―――私は答えを、持っていないでしょう?


「……?」
答えを

持っていない?


千歳は何か引っかかるものを感じた。
さすがにここまで聞いてしまえば、葵の言わんとするところも想像はつく。

それに対する答えを、自分は持っていない、と「千歳」は言う。


本当に、そうなのかしら。



「でももう駄目だ。今すぐお前が欲しくてたまんねぇ」



葵の声は、まるで懺悔するかのようで。
罪を明かします、貴女に対する劣情を告白します、だから

どうか許してください。

そう、聞こえて。



パァッと目の前が真っ白になった。
一瞬、意識をどこかへやっていた千歳は何度か瞬きを繰り返す。


―――違うわ。
ちゃんと、持っている。
生まれた時から、ちゃんと。

愛する人に求められた時に、自分の心が出す答え。


明るい。
稲光が賑やかに部屋を照らす。
時折見える葵の表情は、苦悶。


ここまで言ってもまだ彼は最後の最後で踏みとどまっているのだろう。



何を苦しむことがあるの?
ただの情欲ならば死に物狂いで拒否しよう。
けれど、そうではない。

苦しむほど、私を


「想ってくれている……」

「……千歳?」

「葵は、私を想ってくれてる。だから苦しんでくれたのね」

「……欲だよ。こんなの、男のエゴだ」

「あら。だったら私でなくても良いの?」

「それは嫌だ」

ふふっ。

即答した葵の真剣な、しかし困り果てたような表情に、千歳の口から笑いが漏れる。

「ありがたく、受け取ればいいと思うわ」


きょとん、と彼が目を見開いた。
何を? とその目が言っているから、千歳は柔らかく微笑んで答えた。

「私を」