Pretty lip・2

 そして、うっかりまた……
「いって……」

ようやくくっつきかけていた唇がまた盛大に割れる。

千歳は呆れた表情で、それでも何も言わずにカバンの中から愛用のリップを取り出した。


「つけないぜ」
「強情ね!」


「そーだなぁ、千歳がそれつけてキスでもしてくれたら考えなくもないんだけどな?」

実は過去に一度、リップを塗ったことはあるのだ。
だがあの膜が張ったような感じがどうにも好きになれなかった。
それもあって固辞しているのだが。

さすがにこうまで言えば千歳のことだ、顔を真っ赤にして怒るだろう。


……と、思ったのだが。


「……っな……」

確かに真っ赤ではあった。
千歳の顔は真っ赤で、俺を睨んでもいた。

けど、その手はゆっくりとリップのキャップを外し、彼女の小さな唇に向かう。
スローモーションのような動作で千歳の唇に塗られるそれから目が離せずにいると、千歳は怒ったように「そんなにじっと見ないの」とだけ言って再び動作を再開する。


厚めに塗ったのだろうか、唇が潤い、店内の照明を反射してキラキラと輝く。


「……目、閉じてよ」
「………………へ……?」

気づけばテーブルから身を乗り出した千歳の顔が目の前にあって。
困ったようにそう言われて俺は反射的に目を閉じてしまった。

一瞬息を飲むような音が聞こえたかと思うと、とても。
とても、柔らかな、何かが。

俺のカサついた唇にそっと触れて。

俺の唇に沿うように何度も、何度も触れては離れて。
少しずつ「それ」の温もりを唇で感じられるようになって初めて、俺はそれが千歳の唇だと思い至った。







「……これで、少しはマシでしょ」
照れた表情でそっぽを向いてしまった千歳を呆然と見つめる俺。
いや、まあ、……だけど、お前。

言いたいことはたくさんある。
だがどれもが言葉を形作らないまま俺の頭の中をぐるぐる回り続けていて、俺はぎょぴのようにぱくぱくと口を開けたり閉じたり。




「お前……その……気軽にこういうことするといろんな奴に誤解とかされないか……?」
「ばか!」

ようやく出た言葉は怒声に一蹴される。

「葵以外にこんなことできるわけないでしょう! 鈍感! どれだけ鈍いのよ、あんたは! 私がなんでわざわざここに誘ったかも気づかないで! 北田君たちの気遣いも無駄に終わったってことよね!」

怒りで目を三角にしてまくしたてる千歳に押されて俺は思わず背もたれに思い切り背中をつけた。

秀一が気遣いって……あれは、それじゃあ……俺たちを二人きりにするための口実?
そんじゃわぴこもか?

なんで?




「なんでって……そんなこと考えなくてもわかることだったよな」

思わず俺は笑う。
少し、唇が引きつれたが今度は切れはしなかった。

「そっか……そうだったんだな」
「なによ、急に笑ったりして……私は怒ってるんですからね! もう帰るわ!」


言うが早いか、伝票を手に慌しく店を出て行く千歳。
俺はいまだ呆然とその後姿を見詰めていたが、ふと唇に手をやった。

ほんのりと、以前自分で塗ったときよりもはるかに軽い不快感が残る。
ただ、そのやけにしっとりとした不快感よりも、押し当てられた千歳の唇の感触の心地よさに酔っている俺がいて。

あんなに……やわらかいもんなのか?
毎日リップを塗ってるから?
いや、女ってのはみんなあんななのか?


わからない。
けれど、千歳の唇はマシュマロよりも柔らかく俺を陶酔させてくれた。




俺にしかしないと言った千歳。

「俺も、お前以外はいやだな」


言って、ようやく俺は我に帰る。
そうだ、結局予算の話もまったく進んじゃいない。
明日は千歳の家に行こうか。

そんなことを考えながらふと笑い
「ってて……」

また引きつった唇を押さえながらもどうしても微笑んでしまう緩みきった頬をパチンと一つ叩いた。
















 翌日、天皇誕生日
祝日を利用して俺はデパートに来ていた。

ただし、いつもセールで行っているところではなく。



「いらっしゃいませ、クリスマスプレゼントをお探しですか?」


いわゆる百貨店というやつだ。
ブラウスが一枚ン万円とかするような、バカ高い店が入っている百貨店。
クリスマス前で賑わう店内の客もセレブばかり……に見える。
いや、先入観なんだろうけどな。



「えーっと……確か、このメーカーのロゴが入ってたよな……」


地下の化粧品売り場に多少の居心地の悪さを感じつつも、俺は昨日見た千歳のリップクリームのメーカーの店の前に立っていた。


千歳のことだ、そこらで売ってるものは使わないだろうとは思ったけどさすがに高級品使ってやがんな……


ええとなんだっけ、赤のラインが入ってて……細身で……

「あの、リップクリームなんだけど。赤のラインが入ってて細身のヤツってどれ?」
「彼女さんへのプレゼントですか? 赤のラインでしたらこちらのシリーズになりますが」

うぇ、シリーズって……どれだ、千歳が使ってたやつ?



「うーん……ああ、そうだ、確かなんか甘い香りがしてた」

「どうぞ、こちらの試用品でしたらあけてご覧になれますよ」



いくつか並んだリップを片っ端から開けて、クンクンやっている俺はとても浮いてるだろうなとは思う。
けど、まあ……


「ああこれだ」

千歳の唇からほのかに香ったのは、この香りだった。

「お決まりですか?」
「ああ。これ、プレゼント用に包んでもらえっかな」
「かしこまりました、こちらにおかけになってお待ちください」
「え、あ、ここでいいっす……」


とにかく、早くしてくれ。
周りの好奇の目から逃れたくてたまんねえんだ……











「はい、藤ノ宮です」
百貨店でかわいらしくラッピングされた上にオシャレな紙袋に入れられたそれを手に、俺は公衆電話に飛び込んだ。
ダイヤルすると呼び出し音が2、3回鳴って千歳の少しよそ行きの声が応える。

「千歳か。葵だけど」
「あ、葵……!?」
「あのさ、今からお前ん家行ってもいいか?」
「えっ、あ……で、でももう遅いし……」
「用事かなんかあるのか? だったら諦めるけど」
「用事はないけど……クリスマスは一緒にいられないからってお母様が来てるわ」
「24日に会おうぜ!」
「……ええ、そうする方がいいと思う……」



無理だ。
あのオバサンにつかまると厄介だ。
俺の本能が警鐘を鳴らす。


仕方がない、ちゃんとクリスマスに渡せってことなんだろうな。



俺はホッとしたような、ガッカリしたような気持ちのまま紙袋を大事に抱えて岐路につくのだった……