明治7年。
西洋の新しい文化が日々流れ込んでくる日本で、それでも刀を捨てられずにいる浪人もまだ残る、とある田舎町。
町の中心部から少し外れた場所にある大きな道場から、大きな声が響いた。
その道場に向かって歩いていた青年は驚いて立ち止まる。
「出ていきなさい! ここはあなたたちのような悪党の来る場所ではないわ!」
凛とした響きは、まだ若い女性を想像させた。
「ちっ、師範代だかなんだか知らないが偉そうにすんじゃねぇや! こんな今にも潰れそうな道場こっちから願い下げだぜ!」
いささか焦ったような男の声がしてほどなく、バタバタと数人が飛び出して行った。
男たちが脇をすり抜けるのを、青年はきょとんとしたまま見送る。
そして口元に笑みを浮かべ、開かれたままの道場の門をくぐった。
「まだ何かあるの? ……あら」
門の先に立っていたのは、想像とさほど違わない、若い女性だった。
胴着を着て竹刀を持った、美しい女性。
入ってきた青年を見て目を見開いた。
柔らかな微笑み。
光を反射する金色の髪はサラサラとして手触りが良さそうだ。
最近見かけるようになった宣教師と言えば、黒い外套のような裾の長い服がとても目立つが、彼の場合はそれよりも鮮やかな髪が目立つ。
宣教師と言うものを見たことがないわけではなかったし、この地域には最近よくやって来るから見慣れてきたと思っていたが……
こんなに美しい男性は見たことがなかった。
首から下げているのは、ロザリオとか言うんだったかしら、と考えていると青年が少しだけ頭を下げた。
「初めまして。私はマーロゥと申します」
小さな声だったが、不思議とよく耳に届いた。
周りの音が全て消えたかのように。
「あっ……わ、私は千歳、藤ノ宮千歳です」
あまりにじっと見つめていたせいか、青年が首をかしげたので千歳は慌てて深々と礼をした。
青年マーロゥは千歳にもう一度頭を下げる。
「チトセさん。素敵なお名前です」
千歳はぎくしゃくしながら、青年を家の中へ案内した。
物腰の穏やかな男性と接する機会もなく、どう接して良いのかもわからない。おまけに相手は宣教師。
「ええっと、お茶は飲まれるのかしら……」
とりあえずもてなさなければ。
そうは思うものの、1年前にキリシタン禁制令が廃止されたばかりで、異教の教えや禁忌については全くわからないのだ。
食べてはいけないものがあったりはしないだろうか。
台所に立って、途方に暮れる。
「チトセさん」
「わひゃ!?」
いつの間にか、背後にマーロゥが立っていて。
「大丈夫ですよ。私は何でもありがたく頂きます」
拙い発音でそう言って微笑む彼が思いの外近くにいて、千歳は内心取り乱したが、なんとか顔には出さずにそうですかと返し、緑茶をいれて居間に戻る。
緑の瞳。
それが、脳裏に焼き付いた。